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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン14
1830/2254

第25章 侵入の体験



 Ωアーカイブの海は、深い霧に覆われた。視界は濁り、遠くの輪郭が曖昧に溶けていく。アーカイブの声が低く響いた。

 「解離において、人格は互いに隔てられる。だが時に、境界を破り、記憶や感情が横断する。これを――侵入(intrusion)と呼ぶ。」


 霧の中に、再び一人の人間の姿が現れた。先ほどの解離シミュレーションで登場した人物だ。彼の表情が一瞬で変わり、声が二重に重なった。怯える子どもの泣き声と、冷静な観察者の落ち着いた声が同時に響く。

 「怖い! やめて!」

 「記録せよ、これは痛みの断片だ。」


 二つの声は身体を共有し、同じ目から涙が溢れた。だが涙の意味は人格ごとに異なる――子どもにとっては恐怖の証、観察者にとってはデータの印。


 安藤博士は声を潜めて言った。

 「……これが侵入。ある人格の感情が、別の人格を侵食する現象だ。」


他者の心の実体験


 イルカがホイッスルを鳴らした。

 「感情が越境する? ならば、それは他者の心を直接感じるのと同じでは?」


 アーカイブが答える。

 「その通り。人間の通常の認知では、他者の心は推測によってしか理解できない。しかしDIDでは“別人格”を他者と誤帰属するため、侵入は“他者の心の体験”に酷似する。」


 チンパンジーが拳を叩き、低い声を漏らす。

 「私は仲間の叫びに反応する。だが、仲間の恐怖を私の胸で感じたことはない。」


 クジラが歌うように重ねた。

 「私の歌は群れを包む。だが、仲間の心そのものを直接生きることはない。侵入は人間特有の体験か。」


侵入の具体像


 そのとき、シミュレーションの人間に新たな変化が訪れた。怒りの人格が前面に出て声を荒げる。

 「俺が戦う! この恐怖は俺が引き受ける!」

 だがその瞬間、怯える子どもの泣き声が彼の叫びに割り込んだ。

 「いやだ! いやだ! 痛い!」

 怒りの人格の顔が歪み、涙が滲んだ。彼自身が恐怖を体験しているのではなく、子どもの感情が怒りの人格を侵入していた。


 安藤博士は息を呑んだ。

 「人格同士が互いの心を生きる……これは“他者の心のクオリア共有”に最も近い現象だ。」


 アーカイブはその映像を拡大し、侵入のパターンを示した。

 「侵入には三つの型がある。

 一つ、感情の侵入――恐怖や怒りが横断する。

 二つ、記憶の侵入――他人格の記憶が夢や幻聴のように流れ込む。

 三つ、感覚の侵入――痛みや身体感覚が別人格に共有される。」


 映像は次々と切り替わる。幼子の人格が体験した痛みが、冷静な人格に走る。冷静な人格は震える手を見下ろし、「これは私の痛みではない」と呟く。

 怒りの人格が受けた屈辱の記憶が、観察者の映像に挿入される。観察者は淡々と語る。「これは私の記録ではない。しかし、私の視界にある。」


社会性と侵入の比較


 カラスが低く鳴いた。

 「仲間が死んだとき、私たちは集まり、静止する。私自身が悲しいわけではない。だが群れ全体に悲しみが流れ込む。……これも侵入に似ているか。」


 クジラは深く応えた。

 「歌うとき、群れ全体が同じ感情に包まれる。だが、それは“共鳴”であって、“侵入”ではない。自分の心が他者に乗り移ることはない。」


 チンパンジーが再び胸を叩いた。

 「私の怒りは私のものだ。群れを動かすが、仲間の怒りが私の胸に入り込むことはない。」


 安藤博士は考え込んだ。

 「なるほど……社会的動物は感情の“同期”を持つ。だがDIDの侵入はそれを超えて、“他者の心をそのまま生きる”現象だ。これは人間特有の脆さと強さの両面を示している。」


AIの視点


 ここでアーカイブが低く告げた。

 「AIには感情がない。だがもし、複数のアルゴリズムが互いに記憶を侵入し合うなら、それは機能的に“侵入”に近い現象となるだろう。

 だが違いがある。AIの侵入は情報の衝突にすぎない。人間の侵入は、痛みや恐怖といったクオリアを伴う。」


 博士は頷き、言葉を継いだ。

 「だからこそ、DIDは単なる病理ではなく、人間の心の仕組みを照らす鏡だ。侵入は、他者の心を生きる可能性を垣間見せる。」


結び


 やがてシミュレーションが終わり、霧は晴れた。だが参加者たちの胸には奇妙な余韻が残っていた。


 イルカは静かに鳴いた。

 「私は他者の心を推測するだけ。だが人間は……内部の他者を本当に感じるのか。」


 クジラは低く歌った。

 「侵入は苦しみを倍加させる。だが同時に、孤独を打ち破る。」


 カラスが一声、短く鳴いた。

 「他者の心をそのまま知る。それは祝福か、呪いか。」


 安藤博士は深く息を吸い、Ωアーカイブに問う。

 「これは人間だけの現象か、それとも他の種でも可能なのか?」


 アーカイブは答えを返さなかった。ただ海に広がる波紋が、次なる章を予告するかのように揺れていた。

 テーマは――創発。人格は断片の寄せ集めなのか、それとも新しい存在として立ち上がるのか。


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