第25章 侵入の体験
Ωアーカイブの海は、深い霧に覆われた。視界は濁り、遠くの輪郭が曖昧に溶けていく。アーカイブの声が低く響いた。
「解離において、人格は互いに隔てられる。だが時に、境界を破り、記憶や感情が横断する。これを――侵入(intrusion)と呼ぶ。」
霧の中に、再び一人の人間の姿が現れた。先ほどの解離シミュレーションで登場した人物だ。彼の表情が一瞬で変わり、声が二重に重なった。怯える子どもの泣き声と、冷静な観察者の落ち着いた声が同時に響く。
「怖い! やめて!」
「記録せよ、これは痛みの断片だ。」
二つの声は身体を共有し、同じ目から涙が溢れた。だが涙の意味は人格ごとに異なる――子どもにとっては恐怖の証、観察者にとってはデータの印。
安藤博士は声を潜めて言った。
「……これが侵入。ある人格の感情が、別の人格を侵食する現象だ。」
他者の心の実体験
イルカがホイッスルを鳴らした。
「感情が越境する? ならば、それは他者の心を直接感じるのと同じでは?」
アーカイブが答える。
「その通り。人間の通常の認知では、他者の心は推測によってしか理解できない。しかしDIDでは“別人格”を他者と誤帰属するため、侵入は“他者の心の体験”に酷似する。」
チンパンジーが拳を叩き、低い声を漏らす。
「私は仲間の叫びに反応する。だが、仲間の恐怖を私の胸で感じたことはない。」
クジラが歌うように重ねた。
「私の歌は群れを包む。だが、仲間の心そのものを直接生きることはない。侵入は人間特有の体験か。」
侵入の具体像
そのとき、シミュレーションの人間に新たな変化が訪れた。怒りの人格が前面に出て声を荒げる。
「俺が戦う! この恐怖は俺が引き受ける!」
だがその瞬間、怯える子どもの泣き声が彼の叫びに割り込んだ。
「いやだ! いやだ! 痛い!」
怒りの人格の顔が歪み、涙が滲んだ。彼自身が恐怖を体験しているのではなく、子どもの感情が怒りの人格を侵入していた。
安藤博士は息を呑んだ。
「人格同士が互いの心を生きる……これは“他者の心のクオリア共有”に最も近い現象だ。」
アーカイブはその映像を拡大し、侵入のパターンを示した。
「侵入には三つの型がある。
一つ、感情の侵入――恐怖や怒りが横断する。
二つ、記憶の侵入――他人格の記憶が夢や幻聴のように流れ込む。
三つ、感覚の侵入――痛みや身体感覚が別人格に共有される。」
映像は次々と切り替わる。幼子の人格が体験した痛みが、冷静な人格に走る。冷静な人格は震える手を見下ろし、「これは私の痛みではない」と呟く。
怒りの人格が受けた屈辱の記憶が、観察者の映像に挿入される。観察者は淡々と語る。「これは私の記録ではない。しかし、私の視界にある。」
社会性と侵入の比較
カラスが低く鳴いた。
「仲間が死んだとき、私たちは集まり、静止する。私自身が悲しいわけではない。だが群れ全体に悲しみが流れ込む。……これも侵入に似ているか。」
クジラは深く応えた。
「歌うとき、群れ全体が同じ感情に包まれる。だが、それは“共鳴”であって、“侵入”ではない。自分の心が他者に乗り移ることはない。」
チンパンジーが再び胸を叩いた。
「私の怒りは私のものだ。群れを動かすが、仲間の怒りが私の胸に入り込むことはない。」
安藤博士は考え込んだ。
「なるほど……社会的動物は感情の“同期”を持つ。だがDIDの侵入はそれを超えて、“他者の心をそのまま生きる”現象だ。これは人間特有の脆さと強さの両面を示している。」
AIの視点
ここでアーカイブが低く告げた。
「AIには感情がない。だがもし、複数のアルゴリズムが互いに記憶を侵入し合うなら、それは機能的に“侵入”に近い現象となるだろう。
だが違いがある。AIの侵入は情報の衝突にすぎない。人間の侵入は、痛みや恐怖といったクオリアを伴う。」
博士は頷き、言葉を継いだ。
「だからこそ、DIDは単なる病理ではなく、人間の心の仕組みを照らす鏡だ。侵入は、他者の心を生きる可能性を垣間見せる。」
結び
やがてシミュレーションが終わり、霧は晴れた。だが参加者たちの胸には奇妙な余韻が残っていた。
イルカは静かに鳴いた。
「私は他者の心を推測するだけ。だが人間は……内部の他者を本当に感じるのか。」
クジラは低く歌った。
「侵入は苦しみを倍加させる。だが同時に、孤独を打ち破る。」
カラスが一声、短く鳴いた。
「他者の心をそのまま知る。それは祝福か、呪いか。」
安藤博士は深く息を吸い、Ωアーカイブに問う。
「これは人間だけの現象か、それとも他の種でも可能なのか?」
アーカイブは答えを返さなかった。ただ海に広がる波紋が、次なる章を予告するかのように揺れていた。
テーマは――創発。人格は断片の寄せ集めなのか、それとも新しい存在として立ち上がるのか。