第16章 《冷戦と武士の記憶》
榊原義真の視界に浮かんだのは、東京の高層ビル群だった。
ネオンサインが街を染め、通りにはスーツ姿の人々が波のように押し寄せている。戦場の鬨の声ではなく、終電へと急ぐ足音が街を震わせていた。――冷戦下の日本。武士の影は、ここで思わぬ形に姿を変えていた。
榊原は一人のサラリーマンの身体を追体験した。朝の通勤電車、満員の車両に押し込まれ、汗にまみれながらも耐え続ける。会社に着くと上司に頭を下げ、机に向かい、終業後も接待で酒を飲む。そこに「刀」も「戦場」もない。だが、彼の胸に宿っていたのは確かに「奉公」の精神だった。
「会社のために尽くす。家族はその背後にある。」
それはかつての御恩と奉公の変奏に思えた。榊原は唇を噛んだ。血脈に刻まれた忠義は、時代に合わせて装いを変えていたのだ。
街の片隅には、別の影も潜んでいた。学生運動。バリケードに立てこもる若者たち、ヘルメットと角棒を手に「体制打倒」を叫ぶ姿。彼らは武士ではない。だが、榊原は彼らの瞳に「正義に殉ずる」という一点の純粋さを見た。幕末の志士たちの記憶が、ここで奇妙に蘇っているようだった。血を流すことすら辞さない激情――だがその矛先は国家でも主君でもなく、体制と理想の間で揺らいでいた。
視界が揺れ、沖縄の海が現れる。冷戦の最前線として築かれた米軍基地。戦闘機が轟音を立てて離陸し、核兵器を搭載する艦艇が停泊する。榊原は自衛隊員の身体を追った。制服に身を包み、訓練場で銃を構える。
「武士ではない。だが我らは守るためにここに立つ。」
その声に、榊原の血が震えた。戦う権利を制限されながらも、守るという矛盾を抱えた存在――そこに武士の「影」を見た。
経済の高揚と共に、都市は繁栄していった。新幹線が走り、工場の煙突から白い煙が立ち、輸出の貨物が港を埋める。人々は「経済戦争」に勝利することを誇りにしていた。榊原は製鉄所の熱に包まれた。溶けた鉄が赤く流れ、工員が汗を流して働く。
「これは戦ではない。だが国を支える最前線だ。」
その姿に榊原は、戦国の槍衾を重ねた。矛先は敵兵ではなく、国際市場と技術の競争へ向けられていた。
だが、影は同時に深まっていた。高度成長の裏で、過労に倒れる者、過酷な労務に耐えきれず自死する者。彼らの死は「戦死」と呼ばれなかったが、奉公のために命を失ったことに違いはなかった。榊原は胸を締め付けられる思いで彼らの声を聞いた。
「我らに旗はない。ただ会社の名の下に倒れるのみだ。」
血脈が求めた忠義は、名誉ある死から、静かで孤独な死へと変質していた。
冷戦の終盤、榊原は北海道の防衛演習を追体験した。雪原で迷彩服を纏う自衛官たち、最新の戦車と航空機。敵は目に見えない。だがソ連という巨大な影が、北の空から絶えずのしかかっていた。武士の血は、見えぬ敵への警戒として変貌していたのだ。
そして1989年、ベルリンの壁崩壊。榊原はニュース映像の中に立っていた。人々が壁を砕き、自由を謳歌する姿。冷戦の終わりが訪れ、戦後日本の枠組みも変わろうとしていた。だが、その時すでに武士の記憶は「影」として日本社会に沈殿し、言葉にならぬ規律や忠義として生きていた。
AIの声が低く囁いた。
――「武士は存在しません。しかし影は文化に残り、人々の勤勉さと規律に形を変えました。」
榊原は東京の夜景を見下ろし、静かに頷いた。
「戦場は消え、刀は消えた。だが、影はここにある。」
ネオンの輝きは炎のようでもあり、オフィスの窓に灯る明かりはかつての篝火のようでもあった。血脈の記憶は、時代を超えてなお彼の中で息づいていた。
次の時代へと視界が引き寄せられる。冷戦後、新しい戦争と新しい社会の矛盾が、榊原を待っていた。