第15章 《戦後と武士の影》
榊原義真の目の前に広がったのは、焼け野原だった。
瓦礫と化した街並み。ねじ曲がった鉄骨、崩れ落ちた家屋。子供が空き地で泣き、母が抱きかかえながら呆然と空を見上げている。――1945年8月、敗戦直後の日本。
榊原はその場に立ち尽くした。数百年にわたり武士が背負った「忠義」も「名誉」も、この焦土には見当たらない。ただ、生き延びることが唯一の価値となっていた。
闇市。榊原は路地を歩いた。裸電球の下で米や芋、タバコが売買され、人々が声を荒げて値を競る。かつて武士の子孫であった者も、ここでは野菜を担いで売り歩き、時に盗みや喧嘩で糊口をしのいでいた。腰に刀はない。帯びているのは飢えと不安だけだった。
「武士の名は、もう値打ちを持たぬのだ……」
榊原の胸に、深い空虚が広がった。
やがて、進駐軍のジープが街を走る。兵士たちは笑いながらチョコレートを子供に投げ与え、その影で女たちが媚びるように笑みを浮かべている。かつての「武の支配者」であった日本人が、ここでは敗者として異国の軍靴の下に立たされていた。榊原の血が震えた。祖先の誇りはここで完全に踏みにじられたのだ。
しかし、瓦礫の中で人々は生きるために動き始めていた。榊原は工場跡地を訪れた。男たちは鉄くずを拾い集め、女たちは機械を掃除し、再び織機を回そうとしていた。武士の精神ではなく、「生き延びる力」が日本を支えていた。
AIの声が囁いた。
――「ここに武士は存在しません。だが影は残ります。」
榊原は、ある旧士族の家を追体験した。かつて藩士だったその家は、戦前は軍人として名を保った。しかし敗戦で地位を失い、父は復員兵として帰り、母は配給の列に並んでいた。子は学校で「士族の家系」と呼ばれることを恥じていた。武士の誇りはここでは重荷でしかなかった。
だが、家の奥には古い刀が眠っていた。錆びつき、鞘も割れた刀。父はそれを決して処分せず、床下に隠した。
「これは抜くための刀ではない。生き延びた証だ。」
榊原は、その言葉に祖先の声を聞いた気がした。
戦後復興の時代。街には工場の煙が再び立ち、鉄道が動き始める。学生たちは新しい教科書で民主主義を学び、軍国主義を否定する言葉を覚えさせられた。だが、その中にも「忠義」や「名誉」という響きに敏感に反応する若者がいた。榊原は彼らの瞳に、わずかながら祖先の血の光を見た。
高度経済成長期。スーツに身を包んだサラリーマンが満員電車に揺られている。榊原はその身体を通じて、彼らの規律を感じ取った。毎朝決まった時間に出社し、上司への忠誠を示し、会社のために身を削る。そこには「御恩と奉公」の残像があった。武士は姿を消しても、その精神の影は労働の規律に転化していたのだ。
「戦場はなくなった。だが戦う形は変わっただけだ。」
榊原の胸に静かな確信が宿った。
戦後の家庭。食卓に並ぶ白米、味噌汁、漬物。祖父が静かに語る。
「わしの父は武士の家の生まれだった。だが戦で全部を失った。」
子供たちはその言葉を半ば伝説のように聞いていた。武士はすでに現実の存在ではなく、物語となっていた。榊原は、その語りが血脈を細く繋ぎ止めていることを感じ取った。
敗戦から二十年。東京オリンピックの聖火が街を照らした時、榊原は涙を流した。そこには武士の旗も刀もない。だが人々の誇りと努力が一つに集まり、新しい「日本」の姿が世界に示されていた。武士は断絶した。だが、その影が人々を導き続けていたのだ。
AIの声が響いた。
――「武士は名を失い、制度を失いました。だが影は人々の心に残り、勤勉と忠義の形を変えて受け継がれました。」
榊原は深く頷いた。
「影は消えぬ。たとえ名が消えても、血に刻まれた記憶は残る。」
視界の先に、新しい時代が広がった。冷戦、核の影、そして高度成長の中で揺れる日本。武士の影はさらに希薄になっていくが、それでも人々の心の底で息づいている。榊原は次の時代へ進む覚悟を固めた。




