第13章 《帝国の戦争と武士の影》
榊原義真の視界に現れたのは、広大な練兵場だった。
地を踏み鳴らす無数の軍靴、整列した兵士の列。彼らは武士ではなかった。農民の子、町人の子、そして没落した士族の子らが、同じ軍服に身を包み、同じ号令に従っていた。――帝国陸軍。
鼓笛隊の音が響き、兵たちは一糸乱れぬ動作で銃を構えた。甲冑も刀もない。整然と並んだ銃剣が、かつての槍衾に取って代わっている。榊原は衝撃を受けた。武士の戦は個の血脈の物語だったが、ここでは「国民皆兵」の論理に吸収され、名もない大勢の一部として存在していた。
だがその中に、確かに武士の影はあった。
「軍人勅諭」が読み上げられる。忠節、礼儀、武勇、質素――その言葉はまるで武士道の再編だった。だが奉じる相手はもはや主君ではなく、天皇である。榊原は胸に冷たい震えを覚えた。主従の関係は消えたはずなのに、血脈に刻まれた忠義は、形を変えてここに甦っていた。
場面が変わる。黄海の波を切る軍艦が姿を現す。榊原は艦上に立っていた。日清戦争の舞台、黄海海戦。黒煙を吐く鉄の艦隊が砲声を轟かせ、榴弾が海面を割る。
「撃ち方はじめ!」
指令が響き、砲門から炎が噴き出す。榊原の身体は後方にのけぞり、鼓膜が破れそうになる。敵艦に命中した砲弾が爆発し、黒煙の向こうに悲鳴が響いた。
この戦は武士の一騎打ちではない。海を支配するための、科学と工業力の戦いだった。
しかし、艦上の兵士たちの胸には「武士の誉れ」が息づいていた。
「死しても退かず、艦と運命を共にせよ!」
艦長の声が響き、兵たちは恐怖を押し殺す。忠義の対象が藩主から国家へ移り、戦場は海原に広がっても、精神の芯は変わらなかった。
やがて記録は凍てつく大地に移る。雪原、凍りついた壕。榊原は日露戦争の戦場、奉天会戦の一角に立っていた。ロシア軍の砲撃が轟き、頭上に土砂が降りかかる。日本兵は飢えと寒さに耐えながらも突撃を繰り返す。
「天皇陛下万歳!」
叫びと共に雪を蹴り、銃剣を突き出す。凍りついた銃床が手に食い込み、吐息が白く煙る。倒れていく仲間の屍を踏み越え、なお突き進む。榊原はその視界を共有しながら、血の匂いに混じる「武士の矜持」を嗅ぎ取った。
しかし同時に、彼は矛盾も感じ取った。
この戦いはもはや領主のためではない。国家のため、天皇のため、あるいは名誉のため。だが、兵の多くは農民や町人の出であり、彼らにとって忠義とは遠い概念のはずだった。それでも彼らは「武士の精神」を叩き込まれ、銃剣を握っていた。血脈ではなく制度が忠義を生んでいた。
榊原は心の奥で問いかけた。
「これは武士の継承なのか、それとも模倣なのか?」
旅順要塞の攻防。塹壕を駆け上がり、要塞の砲火に倒れていく無数の兵。彼らの中に榊原は祖先の影を見た。名も残さず、家も持たず、ただ「国」のために散る命。戦国の旗のもとに死んだ祖先と、ここで銃弾に倒れる兵は同じ線上にあるのか。それとも全く別の存在なのか。
戦は日本の勝利で終わった。だがその勝利の代償は、数え切れぬ屍だった。榊原は奉天の雪原に膝をつき、吐息を白く漏らした。
――血の記憶は、ここでも続いている。だがその血は、国家という巨大な枠に吸い込まれてしまった。
大和のAIが低く囁いた。
「武士の精神は、帝国の軍人へと再編されました。しかし、血脈の声は希薄となり、制度の声が支配しました。」
榊原は静かに頷いた。
個としての忠義が、制度の中に溶かされていく。祖先が掲げた旗は、国家の大旗に吸収され、名は個から集合へと変わっていった。
やがて視界が暗転し、榊原は次の時代へ引き寄せられた。
そこに待つのは、さらに巨大な戦。総力戦と呼ばれる時代――世界大戦であった。