第11章 《黒船と幕末動乱》
視界に広がったのは、荒れる波間に浮かぶ黒い巨艦だった。
榊原義真の身体に、低く響く蒸気の音が突き抜ける。巨大な煙突から黒煙を噴き上げ、帆と鉄を併せ持つ異国の船――ペリー提督率いる黒船。嘉永六年(1853年)、浦賀沖。
江戸の泰平で抜かれることのなかった刀が、再びその存在理由を問われる瞬間が訪れていた。
榊原は浦賀の海辺に立っていた。浜辺には役人や町人が群れ、遠巻きに黒船を見つめている。海に浮かぶ巨艦は、まるで別世界から来た怪物だった。砲門が口を開き、甲板には整然と並んだ兵士たち。威嚇のために空砲が放たれると、轟音が大地を揺らした。人々は悲鳴をあげ、武士でさえも表情を失った。
その場にいた藩士の一人が、榊原の身体を通じて呟いた。
「刀で斬れる相手ではない……」
武士の血は、ここで大きな挫折を味わった。
場面は江戸城の評定に移る。老中たちが顔を寄せ合い、開国か攘夷かを巡って激論が交わされていた。
「外国の軍艦に抗する力は我が国にはない。まずは和を結ぶべし」
「いや、攘夷を示さねば国体は失われる!」
榊原はその板挟みを肌で感じた。武士の秩序は数百年続いたが、鉄と蒸気を前にして、従来の「武」では国を守れなくなっていた。
やがて世の中は攘夷の叫びに包まれた。榊原は長州藩の下級藩士の身体を追体験する。
「我らが矢弾は未熟でも、血をもって異国を退ける!」
関門海峡に砲台が築かれ、黒船に砲火が浴びせられる。しかし反撃は圧倒的だった。蒸気艦の砲撃に城下は炎上し、藩士たちは敗走した。
榊原の胸に、無力感が重く沈む。忠義と矜持を貫こうとした武士の意志は、近代兵器の前に砕かれていったのだ。
一方で、江戸の町は激動に揺れていた。町人の中からも志士が現れ、尊王攘夷の旗を掲げる者がいた。町の辻では辻斬りや暗殺が頻発し、血が石畳を染めた。榊原はその刃の感触を体感する。暗闇から忍び寄り、標的の背に刀を走らせる。忠義と信念のためとはいえ、それはもはや「武士の戦」ではなく、政治と思想をめぐる暗闘だった。
京都。御所の門前。尊攘派と佐幕派の武士たちが睨み合い、やがて刃を交える。血煙が立ち、倒れ伏す者の声が夜に響く。榊原はその渦に巻き込まれ、息を荒げた。泰平の矛盾が爆発し、武士が武士を斬る時代が始まったのだ。
さらに時代は加速する。坂本龍馬の暗殺、桜田門外の変、新選組の剣戟。榊原は次々とその場に立たされる。廊下に響く足音、抜刀の閃き、火薬の臭い。誰もが「日本を守る」と叫びながら、互いを斬り倒していく。忠義の名の下に血が流れ、だがその忠義は互いに相容れなかった。
榊原は問いかけずにいられなかった。
「武士とは何だ? 主君のためか、国のためか。それとも己の信念のためか。」
その答えは、誰の刃の中にも見つけられなかった。
やがて鳥羽伏見の戦い。榊原は幕府軍の一兵として戦列に加わった。旧来の武士の軍勢と、新政府軍の近代的兵装。その差は歴然だった。大砲が轟き、銃弾が雨のように降る。幕府の旗は次々と倒れ、江戸へと敗走する。
榊原の心に突き刺さったのは、刀を握りしめたまま倒れる同僚の姿だった。戦う意志はある。忠義もある。だが武器が違えば、戦は始まる前から決していた。
敗北の後、榊原は江戸城無血開城の場に立ち会った。西郷隆盛と勝海舟の会談。血で決するはずの武士の戦が、ここでは言葉と交渉によって決せられた。榊原は深い衝撃を受ける。
「刀ではなく言葉が城を守った……」
その瞬間、数百年続いた武士の歴史が音を立てて終わったのだ。
AIの声が榊原の耳に響いた。
――「ここに、武士の血は断たれました。だが記憶は断たれていません。」
榊原は深く息を吸い込んだ。黒船に始まり、無血開城に終わるこの時代は、武士の矛盾と終焉を凝縮していた。だがその記憶が残る限り、血脈は無意味にはならない。
視界が暗転し、次に現れるのは近代国家の光景。軍服をまとい、西洋の銃を手にした兵士たち。榊原は理解した。武士の血は消えたのではなく、形を変えて「軍人」として継承されていくのだと。