第8章 《戦国の嵐》
視界を覆うのは、黒い煙と炎だった。榊原義真は立っていた。高台から見下ろす盆地一面に、数万の兵が渦を巻いている。太鼓が鳴り響き、法螺が咆哮し、鬨の声が天地を震わせる。――戦国の合戦。
榊原の鼻腔に、血と泥と火薬の匂いが突き刺さる。鉄砲の火縄が燃え、白い硝煙が立ち上る。彼は思わず耳を塞ぎたくなったが、その瞬間、轟音が戦場を裂いた。鉄砲の一斉射撃。矢の唸りとは異なる乾いた破裂音が、大地を震わせる。
――鉄砲伝来。
戦国の嵐は、武士の戦を根底から変えていた。個の武勇から、集団の火力へ。槍衾を組んで突撃する足軽たちを、鉄砲の弾雨が薙ぎ払う。榊原は目を疑った。数百年の武士の伝統が、この瞬間に塗り替えられようとしている。
戦場を駆ける騎馬武者。彼らはかつて戦場の主役だった。だが今、鉄砲の前にその勢いは削がれていた。騎馬武者が突撃するたび、火縄銃の列から閃光が走り、馬ごと撃ち倒される。
榊原は衝撃を受けた。武士の象徴であった一騎打ちが、戦の中心から外されつつある。
場面が変わり、ある城の攻防が始まった。土塁、堀、石垣。かつての簡素な館とは違い、合戦を耐えるための城郭がそびえていた。榊原は石垣に取り付く足軽の列を目にする。矢を浴びせられ、石を落とされ、それでも登る。落ちた者の屍を踏み越え、次の者が進む。血が堀を赤く染め、戦の苛烈さが城壁に刻まれていく。
城内では将が軍議を開いていた。屏風に広がる戦場の図を指し示し、家臣たちに指示を下す。
「ここで鉄砲隊を伏せよ。槍隊は横矢を受けよ。」
榊原は気づいた。戦は「武勇の舞台」から「戦術の舞台」へと移行している。武士の血はもはや剣の切っ先ではなく、組織の中で活かされる時代に突入していた。
しかし、秩序は脆い。
ある場面では、下剋上が繰り広げられていた。主君を討ち、その地を奪う家臣。榊原はその刹那に立ち会った。
「時代が変わる。力ある者が上に立つのだ!」
剣を振るう若い武士の眼には、忠義よりも野望の炎が宿っていた。榊原の胸がざわめいた。鎌倉で確立した御恩と奉公の秩序が、戦国の乱世では崩れ去っているのだ。
農村もまた戦場に巻き込まれていた。田は焼かれ、村は奪われ、農民たちは足軽として徴発される。彼らは槍を持ち、名もなく倒れていく。榊原はその一人の視点を追体験した。稲を刈る手と同じ手で槍を握り、敵に突き立てる。血で濡れた穂先が土に突き立つ。
「生きるために戦う。戦うために田を失う。」
その矛盾が、乱世の現実だった。
戦場の片隅、榊原は祖先とおぼしき一人の武士と視線を交わした。
その武士は血に塗れながらも旗を掲げていた。旗に描かれた家紋は、榊原の家の古き印に酷似していた。
「我が血は、この嵐をも生き延びたのか……」
榊原の胸に熱いものが込み上げた。名も無き一兵ではなく、家を背負う一武士として旗を掲げたその姿に、自らの存在が重なった。
やがて戦の音が遠ざかり、榊原の視界は揺らいだ。
煙が晴れ、現れたのは徳川の世。泰平の長い時代。武士が再び刀を抜かず、統治の担い手となる世界。
榊原は深く息を吐き、次なる章へ進む覚悟を固めた。