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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン14

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第5章 《武士団の胎動(平安末期)》



 大地の色が薄れ、榊原義真の視界に入り込んだのは、都の柔らかな金。御簾の向こうで和歌が詠まれ、螺鈿の卓が灯にきらめく。だが、その優雅の外縁に、別の硬い音が混じっていた。鉄の擦れる音、革紐を締め上げる指の力、弓弦を撫でる掌のきしみ――武の音だ。


 場面はすぐに都から離れ、荘園の端へ移る。広がる名田みょうでん。区画の一枚ごとに名主の名が墨で記され、用水は綿密に制御されている。受領が派遣した在庁官人が年貢を点検し、武装の随身が周囲を睨む。榊原は、稲穂のざわめきの下に潜む緊張を嗅ぎ取った。ここでは「書付」と「矢」が同じ秩序を支えている。


 夜になる。名主たちが納税の割当と番役の順番を論じ、その傍らで若者らが弓馬の稽古をする。流鏑馬の的が吊られ、駆けさせた小馬の背から矢が放たれる。的が乾いた音を立てて割れるたび、集落に押し殺した歓声が広がった。榊原は胸の内でうなずく――これは祭でも遊戯でもない。武藝は、徴発と守備を同時にこなす「生業」だ。


 記録は跳ねるように時間を跨ぐ。東国の山野。前九年・後三年の戦場に、矢草履の足音が降り積もる。泥土と霜の匂い。逆茂木に突き立つ矢。陣幕の影で火を囲む武士たちの顔は煤け、だが眼光は乾いて鋭い。榊原はその輪に加わる。袖の結び目を固く締め、冑に手をかける仕草まで身体が覚えているかのようだった。


 夜襲の合図。角笛が短く鳴り、馬の鼻息が白く散る。楯の列が崩れ、鬨の声が近づく。斜面を駆け下りる一瞬、榊原は視界の周縁に白旗と赤旗の対立を見る――源氏の白、平氏の赤。まだ棟梁は絶対ではない。だが「旗」のもとに人が集まり、姓が「軍事契約」を意味し始めた時代の気配が、確かに立ち上っている。


 都では院政が始まっていた。上皇の院庁が命を下し、検非違使の追補に武者が加えられる。強訴に備えて武装した衆徒が大路を固め、寺社勢力の背後にも弓馬の徒が控える。紙背の人事から実地の武装へ。榊原は、権威の重心が目に見えぬほど微かに、しかし決定的に動く瞬間を嗅ぎ取る。御所の静謐は崩れない。だが、その静謐は武の気配によって保たれるようになった。


 海へ。瀬戸の潮が巻く。関と津の料が課され、海民が操る小早・山舟の群れが朝靄を切る。日宋貿易のこやむつの積み下ろしが夜通し続き、警固の武士が槍を立てて岸を巡る。榊原は、陸の武に対して「海の武」の胎動を感じた。水運を制する者が年貢の道を握る。武士はすでに、陸上の地侍だけではない。


 荘園に戻る。名主の屋敷で評定が開かれる。盗賊の横行、強訴の噂、川筋の付け替え――紙の上の裁断に、常に「実力」が添えられる。若い武士が口を開く。「我らは院の御気色を畏れ奉る。然れど、刀の背にてしか伝わらぬ道理も候。」場が静まり、最後に老名主が頷く。「ならば、旗の下に集え。」榊原は指先がわずかに震えるのを感じる。旗はまだ家そのものではない。だが、旗の下に集まる日常が、家を武家へと変えていく。


 記録の糸は、ある若武者の視界に重なる。革の大袖が肩で鳴り、小札の重みが腰に落ちる。弓の握り革は手汗でしっとりとし、矢羽の匂いが鼻に立つ。馬を起こし、鐙に体重を載せる。遠くで甲高い笛――合図だ。彼は走らせながら、榊原の胸にかすかな声を残す。「奉公はまだ御恩と呼ばれぬ。されど、矢面に立つ時、我が背にある者の顔を思う。名主、子ら、女房、そして田の稲。それで足る。」


 保元・平治の気配が濃くなる。権門の争いが「私戦」を都の中心へ引き入れ、個々の武者は初めて「政治」の真ん中で矢を放つ。主従の結び目は、恩給目録や知行の文言にまだ定式化されぬが、実際の戦列ではすでに機能している。先陣・後陣、侍大将の指示系統、首実検、感状の授受――武の実務が、秩序を独自に産み始めた。


 榊原はふと、自らの呼吸が浅く速くなっているのに気づく。彼の背後で、大和のAIが微かな声を重ねた。――「ここに、武家棟梁の概念が芽吹きます。旗のもと、功と名が交換され、記憶が制度に変わる。」榊原は目を閉じ、脳裏の映像に手を伸ばす。弓手の指にできた硬いマメ、弦を離す刹那の静寂、的を貫く瞬間の白い閃光。武は技であり、技は反復であり、反復は共同体に秩序を刻む。


 港の喧噪。関銭を巡る押し問答。背後で控える武者の沈黙は言葉以上にものを言う。陸と海の境界で、武は税と法を補強し、時に置き換える。榊原は思う――「武士」とは、単に戦う人ではない。動く経済と流れる年貢の「動脈」を守る者だ。守り得ぬ者は退く。守り得た者は名を得る。名はやがて地を得、地は家を養い、家は旗を掲げる。


 都の夜。御簾の陰で密やかな取り決めが交わされ、翌朝には院宣が下る。紙に書かれた墨の線は、午後には矢羽に変わり、夕暮れには血で補強される。榊原は、紙と矢の相互変換が当たり前になっていく時代の傾斜を、身体の重心が傾くほどに感じた。


 やがて、白と赤の旗が都の大路にぶつかり合う日が来る――保元の乱、平治の乱。まだ遠景だが、記録はそこへ向かって流れている。榊原は最後に、東の野で一騎打ちに臨む若武者の息遣いを受け取り、そっと弦に触れた。弦は高く、よく張られている。放てば、時代が鳴る。


 映像が薄れ、代わって現れたのは、潮の匂いとともに赤い大纛を風に翻す一団――平氏の棹歌。遠く、白旗もまた海霧の向こうに揺れていた。武はついに、棟梁の名を戴いて海へ出る。榊原は静かに息を吐き、次の章へ進む準備をした。


 ――源平の戦場。旗と名と家が、はじめて全面的に結び合う場所へ。

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