第2章 《縄文の火焔》
榊原義真の視界が白く塗り潰され、次に色を帯びたとき、彼はもう艦内の接続室にはいなかった。
足元には黒く湿った土、鼻孔には木の煙の匂い。耳を澄ませば、波間から吹き寄せる潮風と、遠くの鳥の声が重なる。
――ここは、縄文。
大和のアーカイブは彼を、約四千年前の列島へと連れ込んでいた。
目の前には土器を焼く焚火。炎に照らされた土器は、複雑な突起をまとい、炎そのものの形を模したかのように立ち上がっている。火焔土器。榊原はその凹凸に手を伸ばした。指が触れた瞬間、土のざらつきと熱が、現実としか思えぬ鮮明さで伝わってくる。
焚火の傍らに、裸足の人々が集まっていた。腰に獣皮を巻き、黒髪を肩まで垂らした若者が弓を携え、獲物を焼く女たちが子に食を分け与える。顔には土で描いた模様。言葉は理解できないが、彼らの表情や所作から、共同体の結束が直に伝わってきた。
榊原の胸に、不意に「武士」という言葉が去来する。
まだ刀も甲冑も存在しないこの時代に、なぜその影を見出すのか。
若者たちが円陣を組み、弓を構えて矢を放つ訓練を始めた。狩りのためか、あるいは儀式か。動作は粗いが、一糸乱れぬ動きに、秩序への強い欲求が見える。矢が放たれるたび、背筋が伸びる。矛を持たずとも、ここに「規律の芽生え」がある。
老女が火焔土器に粥を注ぎ、皆に分け与え始めた。最年長が先に口をつけ、次に子どもへ、最後に若者が受け取る。順序が守られ、誰も逆らわない。
――これは「礼」だ。刀を帯びぬ時代の礼法。
榊原は思わず膝を折り、その列に加わった。粥の温かさが舌に広がり、腹を満たすと同時に、共同体への帰属感が彼の内に流れ込む。
その時、画面が揺らぎ、別の記録が重なった。
――火を囲む集団が、弓を掲げて雄叫びを上げる。獣を仕留めた直後の歓喜。
――次の瞬間、荒れ狂う嵐。舟が転覆し、仲間を失った悲嘆。
――さらに葬送の儀。遺体を丁寧に埋め、赤い顔料を撒く。
それらの記録は断片的に榊原の意識へ流れ込み、脳の奥に刻まれていく。
「死を悼み、秩序を守り、武を磨く。……これが、我らの始まりか」
榊原は深呼吸をした。武士の血を引く自分が、何世代も遡ってなお「戦い」と「礼」の原型に触れている。
祖先の刀剣は、決して空から降ってきたわけではない。火を囲む手、矢を放つ眼差し、仲間を埋葬する涙。そのすべてが、やがて武士道と呼ばれるものに繋がっていくのだ。
炎がひときわ高く揺らぎ、土器が赤く染まる。
その瞬間、榊原は確かに感じた。自らの血が応答している、と。
――血は単なる遺伝ではない。記録と記憶の媒体なのだ。
やがて映像は暗転し、静かな波音だけが残る。
次に現れるのは、稲作を始めた弥生の集落だと告げる文字が、意識の端に浮かび上がった。
榊原は薄く笑みを浮かべる。
「なるほど。武士の源は、ここから続く道にあるのだな」
――火焔土器の記憶は消え去らず、彼の胸に残ったまま、次の航路へと受け継がれていった。