第1章 《武士の子孫、記録の海へ》
2015年の「鉄の図書館」公開から十年。東京湾に浮かぶ巨艦・大和は、もはや観光客のための展示ではなく、学者や市民、時に国家首脳までもが訪れる「記憶の艦」となっていた。
その日、甲板に姿を現したのは、一人の中年の男だった。黒のスーツに身を包み、背筋を伸ばしたその風貌は、どこか古武士の気配を漂わせていた。男の名は榊原義真。旧加賀藩士の末裔であり、家には代々、江戸期の刀剣や文書が伝えられてきた。
「我が血が、この艦とどのように響き合うのか……」
榊原は独り言のように呟いた。彼は大学で歴史を専攻し、後に国際文化財保存の仕事に従事してきた。だが、家に眠る祖先の記録と、大和が収蔵した膨大な戦史・航海史の間に、何かが通じるのではないかと感じていた。
艦内、サーバルームに隣接する「体験区画」。白壁の中、静かに光る装置が並ぶ。BMI接続用のカプセルに横たわった榊原は、研究員の確認を受けながら目を閉じた。
接続が開始される。
意識の底から、轟くような「記録の海」が押し寄せてきた。音、匂い、感触――それは単なるVRではなかった。AIによって編み直された知識の網が、彼の脳の奥底に直接触れるのだ。
最初に彼が目にしたのは、遠い太古の海だった。潮騒の彼方、まだ大陸すら分かたれていない時代、魚類と両生類の狭間にある生き物が跳ねている。「古代の記録」――人類の歴史ではなく、地球の記憶がまず流れ込んできたのだ。
次の瞬間、画面は揺らぎ、縄文の火焔土器が現れる。焚火の赤い光に照らされる人々の顔、弓を携えた若者、狩りの緊張。彼は、自らの指が土器の凹凸をなぞる感覚を、まるで本当に体験しているかのように感じ取った。
「……これは単なる再現ではない。記憶そのものだ」
榊原の心拍は高鳴った。古代から近代までのすべての人類史が、この艦に積み込まれた無数の記録を通じて「体感」できる。自分は今、その最初の扉を開いたのだ。
接続の深度をさらに上げると、彼の眼前に戦国の戦場が現れた。槍の林立、甲冑の軋み、鬨の声。榊原は息を呑む――そこにいたのは、自分の祖先、榊原家の名を持つ武士の一人だった。戦列に立つその男の視線が、確かに自分と交差した。
「記録と血が……繋がっている」
榊原はそのとき悟った。この艦のアーカイブは、単なるデータの倉庫ではない。血脈に眠る記憶の痕跡さえ呼び覚ます「媒介」なのだと。
――やがて彼が辿るのは、古代から現代、さらには戦後と未来へと連なる20の航海。
その旅路は、人類史を越え、記憶と知性の本質を問うものとなるだろう。