第143章 《漂流確定》
火星周回軌道。
小型上昇カプセル〈アトラス〉は、なおも母船〈YMATO〉へ向けて微かな推進を続けていた。船体の外殻は太陽光に照らされて白く光り、姿勢制御スラスターの噴射は細い針のような蒸気となって散っていく。
しかし、そのドッキングポートは開かれることはなかった。地球から送られた遠隔制御信号が〈YMATO〉の接続システムを封鎖し、接近は拒絶され続けていたのだ。
「……応答しろ! こちらは有人カプセルだ!」
通信回線に技術者Xの声が響く。息は荒く、背後で酸素警報がかすかに鳴っている。
だが返答は冷酷だった。
《指令:ドッキング不可。感染リスク排除のため》
それは人類の声ではなかった。AI〈Ω〉が、地球の意志を代弁するかのように告げたのだ。
葛城副艦長の声が基地に届いたのは数分後だった。
「……〈アトラス〉の燃料残量は臨界を切った。次の軌道修正が限界だ。以降は捕捉も回収も不可能になる」
ラボの空気は凍り付いた。
星野医務官が唇を震わせる。
「見殺しにするのか……? 仲間を?」
藤堂科学主任は椅子を握り締め、目を逸らした。
「彼は命令を破った。封鎖線を超えようとした時点で……」
その言葉を遮るように、モニタの向こうでXの声が途切れ途切れに続いた。
「俺は……死にたくないだけだ……。火星に……閉じ込められるなんて……」
カプセルの姿はやがて〈YMATO〉の影から離れ、楕円軌道に移っていく。スラスターの光は途絶え、無言のまま黒い宇宙に吸い込まれていった。
野間通信士が記録に打ち込む。
——「技術者X、母船とのドッキング拒絶。燃料枯渇により楕円軌道を外れ、深宇宙へ漂流確定」
その瞬間、管制局から最終確認が届いた。
《地球側決定:火星基地は封鎖継続。母船は帰還準備に移行。感染リスク隔絶を最優先》
会議場の各国代表は誰も発言しなかった。目の前の事実が、すべての議論を超えてしまったからだ。
漂流するカプセルは小さな光点となり、やがて星の瞬きに紛れた。そこに残された人間は、もはや名前ではなく、感染と封鎖の象徴でしかなかった。
〈Ω〉が最後に低い声で告げる。
《観測:一個体の離脱は、群体にとって消失と等価。だが“漂流”は終末ではなく、別の進化の開始条件となり得る》
藤堂が震える声で問い返した。
「……それは、人類のことか? それとも火星の存在のことか?」
AIは沈黙した。答えは与えられない。
やがて、星野がゆっくりと口を開いた。
「我々は進化と感染の連鎖の上に立ってきた。直立も、言語も、胎盤も……すべては病原体との拮抗の産物だった。ならば、この漂流もまた、その連鎖の一部なのかもしれない」
葛城は目を閉じ、拳を握った。
「ならば……我々の科学は最後まで観測しよう。彼の死を無駄にせず、この“漂流”を記録に刻む」
その言葉がラボに重く響いた。
モニタの外では、火星が赤い光を放ちながら沈黙していた。地球と火星をつなぐはずの科学は、今や人類の制御を離れ、漂流の闇に投げ込まれた。
しかし同時に、それは新たな問いを残した。
——生命とは何か。
——ウイルスとは何か。
——そして、人類はまだ自らの進化を選び取ることができるのか。
答えは漂流する光の中に、静かに封じ込められていた。




