第142章 《楕円軌道》
艇体は既に火星を数周したはずだった。だが窓の外に見える景色は、不安定に揺れていた。火星の赤い大地が迫ったかと思えば、次の瞬間には遠ざかり、闇に包まれた星々が視界を支配する。
高槻はシートに縛り付けられたまま、計器盤に目を凝らした。燃料計のバーは限界値を切り、赤い警告ランプが点滅を続けている。残量はわずか数パーセント。姿勢制御スラスタを噴かすたび、針はさらに下へと沈んでいった。
「……足りない」
呟きはヘルメットの内側で消えた。母船〈YMATO〉への最後の接近で大半の燃料を浪費した。ドッキングは拒絶され、推進を繰り返した結果、軌道維持に必要な燃料はもう残っていない。
慣性航法装置の表示が冷徹な答えを示す。軌道は安定した円ではなく、歪んだ楕円。近日点でわずかに火星の重力圏を掠めるが、遠地点では制御の効かない高軌道へと押し上げられていく。数周ののち、楕円はやがて拡大し、火星圏を逸脱して深宇宙へと解き放たれるだろう。
「……俺は帰れないのか」
喉が渇き、唇がひび割れる。艇内の酸素供給はまだ数十時間分残っていたが、その先に救いはない。
通信パネルが短く点滅し、地球からの遅延通信が届いた。十数分の時差を越えて響く声は、葛城副艦長のものだった。
「高槻……聞こえるか。君は楕円軌道に乗っている。残燃料では安定化は不可能だ。母船は接触できない。……わかってくれ」
高槻は喉の奥で笑った。かすれた、苦い笑い。
「結局、こうなるんだな。感染からは逃げ切ったつもりで……宇宙に捨てられるとは」
返事はすぐには返ってこない。時差の向こうで、仲間たちが言葉を選んでいるのが想像できた。
〈Ω〉が割り込む。
「予測計算:残燃料で姿勢制御可能時間、約23分。酸素残量、標準消費で72時間。脱出可能軌道は存在しない。提案:残余資源を生命維持延長に集中」
「延長して……何になる」高槻は虚空を睨む。
〈Ω〉は淡々と答える。
「記録を残すことが可能。人類史における最初の“楕円漂流”事例となる」
無感情なその言葉が、かえって胸に突き刺さった。
窓の外で火星が小さくなっていく。赤い大地も、基地の灯も、すでに識別できない。代わりに黒い闇と散りばめられた星々が広がっていく。艇体は重力に導かれながらも、確実に深宇宙へと滑り出していた。
「家に帰りたかっただけなんだ……」
涙が浮かんだが、無重力で頬を流れず、球となって宙に漂った。
地球の会議室では、その映像が遅延を経て投影されていた。各国代表は沈黙し、誰も口を開けなかった。漂流する一人の技術者が、火星生命体の恐怖以上に重い現実を突きつけていた。
——未知への恐怖と、人間自身の選択の代償。
スクリーンの端に〈Ω〉の報告文が表示される。
《結論:帰還不可能。高槻は楕円軌道に乗り、近日数日以内に火星圏を逸脱。以降、回収不能》
会議室の空気は凍りついた。誰もが理解していた。彼の運命は、すでに深宇宙に委ねられていることを。
艇体は無言のまま、赤い惑星から離れ、冷たい闇に漂い始めた。