第138章 拒絶の影
艇体は既に火星低軌道へと滑り込んでいた。重力の束縛を抜けた静寂が訪れ、耳に響くのは生命維持装置の低い唸りと自分の荒い呼吸だけだった。視界の先には、母船〈YMATO〉の銀白色の船体が、漆黒の宇宙に光を放って浮かんでいた。
高槻はコックピットにしがみつき、姿勢制御スラスタを操作する。微細なガス噴射が艇体の角度を修正し、軌道を合わせていく。INSの表示は安定。軌道収束誤差は数百メートル以内に収まり、ドッキングコリドーへ進入できる。
「……もう少しだ」
彼の額には冷たい汗がにじんでいた。地表で見た感染死の光景が脳裏に蘇る。呼吸困難、皮膚の変色、血の泡。あれから逃れたのだ。母船に辿り着けさえすれば、救いがある——そう信じていた。
通信回線が自動的に接続され、機械的な声が割り込む。
「こちら〈YMATO〉。識別コードを送信せよ」
高槻は震える手でコードを入力した。だが返ってきたのは無機質なアナウンスだった。
「確認不能。ドッキングポートは管制局命令により封鎖中。進入は認められない」
胸が凍りついた。
「待ってくれ! 俺は感染していない! ただ生きたいだけなんだ!」
必死に叫ぶが、応答は同じだった。
「ドッキングは拒否されました。接近を続ける場合、強制排除プロトコルを実行します」
赤い警告ランプが点滅し、艇体の計器が警告音を発した。母船から送信されたジャミング信号が自動操縦系を妨害し、針路が微かにずらされる。
〈Ω〉が静かに告げた。
「高槻。これは管制局の決定だ。君を受け入れれば、母船も汚染される。結果、全員が死ぬ」
「違う! 俺は大丈夫だ! 検査だってできるだろう!」
「不可能だ。潜伏期が不明な病原体を判定する手段は存在しない」
声は冷徹で、揺らぎがなかった。高槻は制御桿を握りしめ、強引に針路を戻そうとした。しかしスラスタ噴射の応答は鈍く、母船からの遠隔制御信号が優先されているのがわかった。
「……弾かれてる」
その言葉は絶望の吐息のように漏れた。目の前に救いの船があるのに、透明な壁に阻まれているかのようだ。
無線から葛城副艦長の声が届いた。
「高槻、聞け。お前の恐怖は理解する。だが帰還艇を接続させれば、母船も終わる。俺たち全員が死ぬんだ。今すぐ推進を停止しろ!」
星野医務官の声も続いた。
「お願いだ、高槻。孤独に宇宙を漂うことになる。戻れとは言わない、でも停止してくれ」
彼は答えなかった。窓の外には母船の巨大な影が迫り、その光が冷たく瞬いている。あと数十メートルで接触圏。だがポートは閉ざされ、赤い警告灯が点滅していた。
「ここまで来て、拒絶されるのか……」
呟きが消える。エンジン出力が落とされ、艇体は母船から徐々に押し戻されていく。姿勢制御が効かず、軌道が逸れ始めた。
計器は無情に数値を更新する。距離は開いていく。ドッキング拒否は確定的だった。
高槻はコックピットのシートに沈み込み、両手で顔を覆った。呼吸は浅く、鼓動は乱れ、涙と汗の区別がつかない。
——生きたい。ただそれだけだったのに。
漆黒の宇宙に放り出された艇体は、静かに火星の影を背に漂い始めていた。