第137章 《禁忌の兆し》
ハンガーの照明は夜間モードで落とされ、赤い非常灯が艇体の輪郭だけを浮かび上がらせていた。外では砂嵐が壁を叩き、低い唸りが振動となって床に伝わってくる。だが内部は静まり返り、まるで時間そのものが停止したかのようだった。
高槻は汗ばむ手でアクセスカードを握りしめた。挿入端末に差し込むと、短い電子音が響き、ハッチのシールが解かれる。ゆっくりと開いた先に現れたのは、全長9メートルの上昇艇。鋼鉄の殻に覆われたその姿は、今の彼にとって唯一の救済であり、同時に禁忌そのものでもあった。
ラダーを駆け上がると、手袋越しにも金属の冷たさが伝わってくる。ハッチを閉め、密閉音を確認してからコックピットに身を滑り込ませた。暗闇の中で深呼吸をひとつ。彼の心臓は早鐘のように鳴っていた。
起動シークエンス。
補助電源を接続。パネルに緑の光が走り、スクリーンが立ち上がる。酸素供給ライン、窒素バランス、与圧システム——公称値。燃料タンク圧、姿勢制御スラスタ、推進系プレヒート——正常。
「……行ける」
訓練で幾度も反復した手順が、筋肉の記憶から引き出される。慣性航法装置(INS)を初期化、ジャイロをスタンバイに移行。点火シーケンス予備充電。パネルに並ぶ緑ランプが、ひとつまたひとつと点灯していく。
高槻は一瞬だけ目を閉じた。脳裏には、地球に残してきた家族の姿が浮かぶ。母の笑顔、妹の声。感染死した同僚の最期の顔と重なり、胸の奥で恐怖と郷愁がないまぜになった。
「俺は死にたくない……」
その呟きと同時に、指は「メイン・イグナイタ」にかかっていた。
轟音。艇体が震え、座席が背中を押し返す。加速度が体重を数倍に増やし、胸が圧迫され呼吸が浅くなる。シートベルトが軋み、計器が警告音を散発的に鳴らす。
〈Ω〉の声がコックピットに割り込んだ。
「警告。発射行為は規則違反。母船のドッキングシステムは遠隔遮断されている。帰還は不可能」
高槻は歯を食いしばった。
「黙れ! 俺は生きる!」
スラスタの炎が砂嵐を突き破り、艇体はゆっくりと浮上した。視界が揺れ、窓の外で赤い大地が遠ざかっていく。重力の束縛が弱まり、圧迫されていた胸が少しずつ解放される。
高度1キロ、加速良好。INSは姿勢誤差±0.3度以内。制御は安定している。彼は自分の呼吸音を聞きながら、数字が刻む現実に縋った。
「上昇軌道、正常……」
大気の薄層を抜けると、窓の外に漆黒の闇が広がった。赤い惑星がゆるやかな曲線を描き、彼の下に広がっていく。その向こう、宇宙の深淵に母船〈YMATO〉の影が小さく浮かんでいた。
「……見えた」
心臓が跳ねた。あの船にさえ辿り着けば、感染の恐怖から解放される。彼はそう信じた。
だが通信パネルが点滅し、再び〈Ω〉の声が流れ込む。
「再警告。母船のドッキングポートは封鎖中。接続許可は存在しない。現在の行為は漂流死に直結」
高槻は耳を塞ぐように叫んだ。
「構うものか! 地表よりはマシだ!」
艇体は音もなく宇宙空間に滑り出た。重力が消え、身体がふわりと浮く。高槻は制御桿を握りしめ、母船の方角に針路を合わせた。
眼前に広がるのは、星々の瞬きと赤い惑星の弧。そして、無言の巨大な影。
彼は確信していた。——まだ生き延びられる、と。