第136章 《デポ遠征》
火星の朝は静かだった。薄い大気に太陽が昇ると、赤茶の砂丘が長い影を落とした。外気温は氷点下60度。葛城副艦長はローバーのチェックリストを手袋越しに確認する。動力、タイヤ、通信。すべて問題なし。
「行くぞ。目標はデポ‐A3の物資回収。科学的な採取は二次だ」
星野医務官が頷く。「帰還後は徹底的に除染する。外から持ち込むものはすべて三重に封入だ」
藤堂科学主任は黙ったまま、追加のサンプル容器を抱えていた。科学者の目は、物資よりも“未知の存在”を見たがっている。
ローバーはゆっくりと走り出した。基地が遠ざかり、赤茶の地平線が広がる。やがて砂丘の風下に、不自然な波模様が現れた。
「止めろ」藤堂が叫ぶ。
カメラがズームする。砂粒の間に透明な膜のようなものが広がり、細い糸が網の目を作っている。
AI〈Ω〉が報告した。
「検出:異常な分子構造。地球のPNA(ペプチド核酸)に近い信号。砂に付着し、電気で移動している可能性」
星野が即座に警告する。「胞子のように拡散してる。ローバーに付着すれば基地に持ち込む危険がある」
やがてデポ‐A3に到着した。砂に半ば埋もれた金属コンテナ。葛城が電源をつなぎ、封印を解除する。中には酸素タンクや食料、予備のフィルタ、そして古いサンプル隔離筒が入っていた。
「助かった……これでしばらくは持つ」星野が息を吐いた。
しかしそのとき、ローバーの外板に白い霜のような模様が広がった。藤堂が目を凝らす。
「違う……あれは水ではない。さっきの網目だ」
〈Ω〉が即答する。「外板表面で電荷上昇。分子膜が付着」
星野は即座に指示した。「帰還後は高温で完全除染する。外板は分離、内部には絶対に入れるな」
帰路、砂嵐が迫った。視界はほとんどゼロ。通信にはノイズが走る。
「〈Ω〉、慣性航法に切り替え。地図で誘導してくれ」
「了解。方位右に1.3度修正」
ようやく基地が砂煙の向こうに見えた。エアロックに入ると、除染シャワーと熱風処理が始まる。物資はクリーン側へ、外部付着物は廃棄ラインへ流される。
藤堂は隔離筒を抱えて観察窓に立った。中の試料は微かに光を放ちながら、網目を広げている。
「……設計の手が見える」彼は呟いた。
そのとき、通信パネルが点滅した。ログには、上昇艇の自己診断が深夜に行われていた記録。点火シーケンスすらテストされていた。
野間通信士が青ざめる。「誰かが……帰還の準備をしている」
外では砂嵐が基地を揺らし、観察窓の奥でサンプルが微かに明滅を繰り返していた。まるで、人間たちの動きを見透かしているかのように。