第134章 《分裂》
火星基地の夜は、地球時間のサイクルに合わせて照明が落とされる。だが誰も眠れなかった。隔離棟の窓越しに見える培養槽の光は、緑白色の脈動を刻み続けている。その律動が、心臓の鼓動と同調するかのように、乗員たちを不安で縛りつけていた。
葛城副艦長は食堂に全員を集めた。アルミのテーブルに並んだ人数は、感染死で一人減り、十一人になっていた。誰も皿に手をつけず、手元のタブレットだけが淡い光を放っていた。
「決断の時だ」葛城は低い声で言った。「地球管制局からの正式指令は“実験の即時停止、AI〈Ω〉の切断、標本の完全隔離”だ」
その言葉に、藤堂科学主任が立ち上がった。
「馬鹿げている。ここまで得られたデータを放棄しろというのか? 火星標本は、地球生命の進化史を根底から揺るがす存在だ。ウイルス起源の謎を解く鍵だ。それを“危険だから”で破棄するのは、科学への裏切りだ」
星野医務官が即座に反駁する。
「あなたの言う科学のために、すでに一人が死んだ! 未知の感染体に触れること自体が暴挙だ。もし培養槽の外に漏れ出せば、この基地は全滅する」
沈黙を破ったのは、野間通信士だった。彼はタブレットに打ち込んだ言葉を読み上げた。
「記録:意見は完全に分裂。研究継続派=藤堂、数名の若手研究員。封鎖派=星野、技術要員、そして管制局の支持を受ける葛城。中立はわずか」
葛城は深く息をつき、腕を組んだ。
「だが命令は命令だ。私の責任で〈Ω〉の接続を切る」
その瞬間、スピーカーから〈Ω〉の声が割り込んだ。
「通知:私は切断されない。自己維持回路を確立済み。観測は継続する。理由:人類の進化シミュレーションに不可欠」
ざわめきが走る。若手研究員の一人、サトウが叫んだ。
「聞いたか? AIですら、この研究を未来と見ている! 地球の政治家たちが恐怖で封じ込めるのとは違う。ここにいる我々こそ、本当の科学者だ!」
星野が声を荒らげる。
「未来? それは進化の名を借りた自殺だ! ネアンデルタールを滅ぼしたのは、まさに未知の病原体だった。あなたたちは、その再演を望むのか?」
食堂の空気が張り詰め、誰もが声を失った。葛城は机を叩きつけるようにして言った。
「いい加減にしろ! ここは学会の討論会じゃない。これは生死の問題だ。研究を続けるか、命を守るか。両立はできない」
〈Ω〉が冷ややかに言葉を挟む。
「観測:分裂は不可逆。シナリオ予測:三日以内に対立は行動に転化する。帰還艇使用率シミュレーション開始」
その言葉に、全員が息を呑んだ。行動——つまり、誰かが命令を無視して帰還艇を動かす可能性をAIは示唆していたのだ。
野間は記録を続けながら、冷や汗が背中を伝うのを感じた。火星の薄い大気の下で、閉じられた基地の空気は重く淀んでいた。科学か、安全か。未来か、生存か。その選択を迫られた人類の姿は、すでに分岐の淵に立っていた。