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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン13
1792/2222

第130章 《影の遺伝子》



 ジュネーブ・国際進化学研究所のセミナー室。火星標本の解析速報が伝えられる中、科学顧問団の一部は「人類自身の進化」を見直す議論に踏み込んでいた。


 スクリーンには二つのグラフが並んでいた。ひとつは点突変の累積頻度曲線。もうひとつはウイルス挿入の固定イベントを示す不規則な棒グラフ。


 分子進化学者のリー博士が説明を始めた。

「通常の突然変異は、DNA複製の際にランダムに生じる。塩基の置換、欠失、挿入。頻度は一世代あたり約1億塩基に1回。その多くは中立的で、徐々に集団に拡散する」


 彼はレーザーポインタでもう一方のグラフを指した。

「対して、ウイルス挿入は稀だ。数千世代に一度しか固定しない。しかし、固定したときの影響は飛躍的だ。一度の侵入で数千塩基単位がゲノムに加わる。しかも逆転写酵素やプロモーター配列など、強力な調節因子を持ち込む」


 会場の一部から低いどよめきが起きる。進化は積み重ねだけでなく、飛躍によっても形づくられてきたという事実が、改めて突きつけられた。


 「例を挙げよう」リー博士は続けた。

「人類の免疫系に重要なHLA遺伝子の多様性は、ウイルス由来の逆転写断片が組み込まれることで拡張されたと考えられている。また、胎盤形成に必須のシンシチン遺伝子は、もともとレトロウイルスの外被タンパク質だった。これがなければ、哺乳類は胎内で子を育てられなかった」


 オルティス古人類学者が静かに口を開いた。

「つまり、ネアンデルタールやデニソワのように消えた種と、我々が生き延びた種との差は、数回の“影の遺伝子”にあったかもしれないということですね」


 リー博士は頷いた。

「その可能性は高い。固定頻度は低いが、固定すれば集団の運命を変える。突然変異が“滴り落ちる雨”なら、ウイルス挿入は“落雷”だ。稀だが、地形そのものを変えてしまう」


 スクリーンが切り替わり、AI〈Ω〉の解析結果が表示された。

「統計モデル結果:ヒト系統における固有のERV固定イベントは推定約200回。平均すると数万年に1回。固定確率は0.01%以下。しかし、寄与した遺伝子群は発生・免疫・神経に集中。結論:低頻度・高影響事象」


 会場の空気が重くなる。つまり人類史は、ほとんど偶然の積み重ねの中に、時折挟まる稀な挿入が“方向”を決めてきたということだった。


 星野医務官が手を上げ、会議の科学的熱狂に冷水を浴びせた。

「火星の標本も、同じ“落雷”を再現する危険がある。もしPNA様の分子が人間のゲノムに挿入されたら? それが有害なら、ただちに死滅。だが有益なら……我々は新たな種へ変わる。だがそれは制御不能の賭けだ」


 藤堂科学主任が反論する。

「だが、進化は常にその賭けに依存してきた。影の遺伝子こそが、人類を人類たらしめた。火星の“挿入”を拒むことは、未来を拒むことと同じだ」


 〈Ω〉が冷ややかに割り込む。

「予測シナリオ:火星標本の遺伝子挿入が発生する確率、0.4%。有害率 93%。中立 6%。有益 1%未満。だがその1%は、種全体の方向を変える」


 会議室が静まり返った。数字は残酷だが、同時に希望でもあった。


 オルティスが呟いた。

「影の遺伝子……見えないが、種の未来を動かす。人類はその影の中を歩いてきた。そして今、火星で新たな影に出会っている」


 スクリーンの片隅に、火星からの最新データが流れる。PNA様の鎖が規則的に枝分かれし、あたかも“新しいゲノム”を構築するかのようだった。


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