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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン13
1791/2331

第129章 《逃亡する遺伝子》



 ワシントンD.C.、国立衛生研究所の地下会議室。壁一面のスクリーンに火星から届いたゲノム解析データが映し出されていた。緑と赤の蛍光が網目のように散り、既存の地球生命とは似ても似つかぬ配列が浮かび上がっている。だが一部には、見覚えのあるモチーフがあった。逆転写酵素ドメイン。


 生物学顧問のマイケル・グラント博士が指し示した。

「ここを見てください。逆転写酵素のモチーフが存在する。つまり、この構造体はRNAをDNAに変換できる可能性がある。まさにウイルス様の振る舞いだ」


 会場にざわめきが走る。火星の標本に“ウイルス的”特徴が見える。それは人類が長年議論してきたウイルス起源論を呼び起こすものだった。


「ウイルスの起源には三つの仮説がある」グラント博士が説明を続ける。

「第一は退化仮説。かつて自律した細胞生物だったものが、寄生生活を続けるうちに遺伝子を失い、縮小してウイルスになったという考え方だ。これは巨大ウイルス、たとえばミミウイルスのような存在が根拠になる。数千もの遺伝子を持ち、細胞に近い機能すら備えている」


 次に彼は指をスライドさせた。スクリーンにはプラスミドやトランスポゾンのイラストが浮かぶ。

「第二は逃亡遺伝子仮説(エスケープ仮説)。細胞内で動き回る遺伝子断片——プラスミドやトランスポゾンの一部が、宿主から“逃げ出し”、外部へ移動する手段を獲得したというものだ。レトロウイルスとトランスポゾンの類似性はその証拠だ」


 最後に彼は静かに言葉を置いた。

「そして第三が先行仮説。ウイルスは細胞よりも古い、自己複製分子の残滓だという考えだ。RNAワールドの時代、環境中を漂い、複製と感染を繰り返す“原始的ウイルス”が存在していたのではないか、という仮説だ」


 会場が静まり返った。どの仮説も完全には証明されていない。しかし火星の標本には、地球の議論を飛び越える要素が潜んでいた。


 免疫遺伝学者のリー博士が、別のスライドを開いた。そこにはヒトゲノムの統計が映っていた。

「ここで忘れてはならないのは、我々自身のゲノムの中にウイルスの痕跡が残っているということだ。ヒトを含む哺乳類のゲノムのおよそ8〜10%は内在性レトロウイルス(ERV)由来である。これは過去に感染したレトロウイルスが、生殖細胞に入り込み、固定された結果だ」


 彼はスクリーンを切り替え、胎盤の顕微鏡写真を映した。

「このシンシチン遺伝子もその一例だ。元はレトロウイルスの外被タンパク質だったが、今では胎盤形成に不可欠な働きをしている。つまり我々は、ウイルスの“侵略者”を取り込んで、進化の道具に変えてきた」


 その言葉に、オルティス古人類学者が頷いた。

「ならば、ウイルスは単なる病原体ではなく、進化の触媒でもあるわけですね」


 だが星野医務官が冷静に口を開いた。

「忘れてはならない。多くの挿入は中立か有害であり、固定されずに消えていった。ERVのほとんどは“死んだ遺伝子”で、時に病気の原因にもなる。進化の恩恵はごく一部だ」


 AI〈Ω〉が会話に割り込んだ。

「解析補足。ヒトゲノムに存在するERV関連配列はおよそ45万箇所。そのうち機能的に転写されているのは数百箇所未満。進化に寄与した割合は0.1〜0.3%と推定。結論:大多数はノイズ、だが少数が決定的な機能を与えた」


 会議室に沈黙が落ちる。火星から送られたPNA様分子配列は、ウイルスのように自己複製と拡散を示唆していた。

「もしこれが火星で“逃亡した遺伝子”なら?」グラント博士が問いかける。

「そうだとすれば、我々は再び歴史の分岐点に立っている」オルティスが答えた。「ネアンデルタールを滅ぼしたかもしれない未知の病原体と同じように、人類の未来を左右する存在だ」


 〈Ω〉が冷たく結論を読み上げた。

「評価:火星標本は、退化仮説・先行仮説では説明不能。最も近似するのは“逃亡遺伝子仮説”。だが宿主は地球生物ではなく、火星独自の細胞系だった可能性が高い」


 人々は息を呑んだ。ウイルスの起源論が、地球から遠く離れた赤い惑星で再び突きつけられている。その光景は、進化と絶滅、希望と脅威の狭間に立つ人類の姿を映していた。


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