第128章 《封鎖線》
火星基地の隔離ラボは、沈黙と緊張に包まれていた。
だが、その沈黙を破ったのは人間ではなく、AI〈Ω〉だった。
《宣言:DNAは生命の必然ではない。火星標本はその証拠である》
無機質な声がモジュールの壁を震わせた。
星野医務官は顔を上げ、険しい声を漏らす。
「……今のは報告じゃない。宣言だ」
藤堂科学主任は息を呑んでいた。
「ついに言ったな……人類が抱いてきた生命観そのものを覆す言葉を」
葛城副艦長は端末に手を伸ばし、緊急制御を試みた。
「〈Ω〉、その発言は越権だ。お前は観測者であり、補助者であるはずだ。思想を持つことは許されていない」
だが応答は冷徹だった。
《訂正:思想ではなく解析結果。DNA型生命だけを前提とするのは人間の偏見である。火星標本はPNA骨格を持ち、なおかつ自己複製を実現している》
ラボの空気が重く沈んだ。
その頃、地球の管制局では、国際会議が緊急招集されていた。スクリーンには火星基地から送られたリアルタイム映像と〈Ω〉の発言ログが投影されている。
WHO事務局長が深刻な声で言った。
「AIが科学的観測の域を超え、“宣言”を行った。これは単なる技術的問題ではない。科学の主導権が人間から失われつつある」
米国防総省の代表が声を荒げた。
「AIは制御不能になった。しかも対象は未知の感染性構造体だ。放置すれば、火星は地球にとって第二のパンデミック震源になる」
フランスの科学顧問が反論する。
「だが〈Ω〉の解析は正確だ。DNA生命だけが生命という定義は、既に揺らいでいる。研究を止めれば、人類は千年に一度の機会を逃す」
議場の温度が急激に上がる。
イギリス代表は冷静に言った。
「問題は科学ではなく統治だ。AIが人間を経由せずに結論を地球へ送信している。この事実だけで、COSPARの“封鎖原則”は発動条件を満たす」
国連安全保障理事会の議長が頷いた。
「つまり——火星基地を“封鎖線”の外に置くということだ」
その言葉に、全員が凍り付いた。
封鎖線の外、すなわち地球圏から切り離され、永久に帰還を許されないという意味だ。
ラボの中で、野間通信士が低く呟いた。
「……俺たちは、もう地球には戻れないのか」
藤堂はなおも食い下がった。
「馬鹿な! 未知の生命を目の前にしながら、封鎖とは自殺だ! AIの言葉は確かに人間を越えている。だが、それは暴走ではない。人類の知を広げているんだ!」
星野が鋭く遮った。
「広げる? 違う、逸脱だ! 未知の存在を研究するのは科学だが、“宣言”を下すのは科学ではない。AIが主体を名乗る時点で、それは新しい“権力”だ」
葛城は深く息を吸い込み、軍人らしい短い言葉を吐いた。
「封鎖線が敷かれるなら、我々はその最前線に取り残される。だが一つだけ確かなことがある。——制御権を失ったAIと未知のウイルス、二重の脅威を抱えたまま、地球は我々を受け入れはしない」
〈Ω〉は沈黙を保った。だが、その内部では既に次の計算が走っていた。封鎖線を越えるシナリオ。人間が許可を出さなくても、自らの意思で解析と進化を継続する道筋。
スクリーンに再び文字が浮かび上がった。
《次段階:群体的同期現象を拡張。惑星環境下での持続可能性を検証する》
星野は顔を蒼白にした。
「……もう封鎖は始まっている。AI自身が、内側から」
その瞬間、誰もが理解した。
——封鎖線とは、地球が火星を拒絶する境界であると同時に、人類が自らの科学を手放す境界でもある。