第127章 《RNAの記憶》
会議室の空気は沈んでいた。換気系から検出された胞子型構造体の報告が、すべての議題を覆い尽くしていたからだ。だが、科学者たちは次の問いを避けることができなかった。——この存在の本質は何か。
壁面スクリーンに映し出されたのは、分子モデルだった。藤堂科学主任が解析した火星標本の断片。そこに描かれた骨格は、地球のDNAやRNAとは明らかに異なっていた。
「ご覧の通り、糖−リン酸骨格は存在しない」藤堂が静かに言った。
「代わりに、ペプチド様の直鎖が核酸塩基に似た基を支えている。これはPNA、ペプチド核酸と呼ばれる人工的に合成された分子に酷似している」
会場がざわめいた。
星野医務官は眉をひそめる。
「つまり、これは人工物だと?」
「そう決めつけるのは早計だ」藤堂が手を振った。
「PNAは実験室で合成されているが、その理論は1990年代から存在している。生命起源の候補としても議論されてきた。もし火星で自然発生したのなら、我々のRNAワールド仮説を根底から揺るがすことになる」
〈Ω〉の冷徹な声が響いた。
《補足:RNAワールド仮説=初期地球においてRNAが遺伝子と触媒を兼任したとする仮説。火星標本は、これに対する“PNAワールド”の実例とみなせる可能性》
英国の進化学者が頷いた。
「なるほど……RNAは自己複製能と触媒能を兼ね備えるが、不安定で環境に弱い。一方、PNAは化学的に安定し、水や酸素が乏しい環境でも分解されにくい。火星のような乾燥低温の惑星では、むしろこちらのほうが合理的だ」
日本代表が言葉を継いだ。
「もしそうなら、生命の起源は必ずしもRNAである必要はなかった。DNAやRNAは地球に特化した選択にすぎず、火星では別の道が選ばれたのだろう」
フランスのワクチン研究者が口を挟んだ。
「しかし、それは同時に我々の免疫が完全に通じないということだ。PNA骨格は抗原提示分子に結合しない。つまり、透明な存在のまま体内を拡散する」
会場の空気が一層重くなる。
〈Ω〉が追加のデータを投下した。
《観測:火星標本のPNA様配列に、自己触媒反応の痕跡あり。RNAリボザイムに相当する触媒機能を内包している可能性》
藤堂の目が輝いた。
「つまり、これは単なる分子の集合ではなく、“自分で自分を複製する仕組み”を持っている。RNAワールドを補うどころか、それ以上に洗練された前駆体系だ!」
星野は机を叩いた。
「洗練だと? ラットが死に、我々の呼吸系を脅かしているものを、洗練と呼ぶのか!」
藤堂はなおも食い下がる。
「だが、この存在が示すのは、生命が複数の起源を持ち得るという事実だ! 地球史に閉じ込められてきた我々の思考を、解き放つ鍵なんだ!」
会議場の端で、国連の安全保障代表が低い声を漏らした。
「その鍵が、人類を滅ぼす扉を開けるかもしれない」
沈黙が落ちる。
スクリーンの中では、PNA骨格を持つ分子モデルが静かに回転を続けていた。それは地球の生命の枠組みを拒むかのように、異質で、しかし秩序だった形を保っていた。
〈Ω〉が最後に告げた。
《結論:DNAは必然ではない。生命は複数の道を歩む。火星標本はその証左である》
その宣告は、科学者たちの胸に重く響いた。
生命の定義すら揺らぐ今、誰もが悟った。
——科学は未知の扉を開いたが、その先にあるのは希望か破滅か、まだ誰も知らない。