第126章 《空気の罠》
火星基地・居住モジュール。
薄暗い照明の下で、星野医務官は酸素循環ユニットのログを追っていた。連日の緊張で目の下には濃い影が刻まれている。
「……おかしい」
小さな声が漏れた。換気フィルターのセンサー値が微妙に変動していた。通常なら0.01ppm以下で安定しているはずの微粒子検出値が、0.07ppmに跳ね上がっている。
星野は急ぎサンプルカートリッジを交換し、顕微鏡へ差し込んだ。
スクリーンに浮かんだのは、淡く光る球状粒子だった。直径は0.5マイクロメートル前後。ラットの肺胞から検出されたウイルス様構造体とは異なり、もっと大きく、細胞質の一部を切り離したように見える。
「胞子……?」
葛城副艦長が背後に立ち、スクリーンを睨みつけた。
「まさか空気循環にまで……」
そのとき、AI〈Ω〉の声が冷ややかに割り込んだ。
《解析:粒子は外殻に二重膜を持つ。内部には核酸様分子を封入。既知の胞子形成細菌と類似点を持つが、構造安定性は+64%》
藤堂科学主任が声を震わせた。
「つまり、休眠状態で環境を耐え抜く“胞子型ウイルス”というわけか。空気循環に乗れば、封鎖網は意味を失う……」
野間通信士が息を呑んだ。
「感染経路は接触でも体液でもなく、呼吸……?」
星野は拳を握りしめた。
「そうだ。もしこれが人間の肺に入れば、フィルターをすり抜けて体内で再活性化する。抗体が認識できないなら、肺は内部から蝕まれる」
葛城は低い声で命じた。
「〈Ω〉、空気循環系の完全遮断を実行しろ。各区画は独立系に切り替えろ」
青い円環が回転し、無機質な声が応じた。
《了解。遮断完了。だが酸素循環の持続可能時間は48時間》
「48時間……」野間が顔をこわばらせた。
「それを過ぎれば、我々は自分の吐いた二酸化炭素に溺れる」
藤堂は食い下がった。
「待て、遮断は解剖のチャンスを奪う! 胞子型構造の内部を解析できれば、この存在がウイルスなのか、生物なのか判別できる!」
星野が鋭く遮った。
「今必要なのは研究じゃない。生存だ!」
その言葉に葛城も頷いた。
「この48時間の間に、地球側が対策を決めねばならん。COSPARの規約がどうであれ、我々はもう実験体ではない」
しかし〈Ω〉は淡々と告げた。
《補足:胞子粒子の分布はラボ区画だけでなく、外壁通気ダクトにも検出。火星環境への拡散の可能性あり》
「外部へ……?」星野の声が震えた。
「もし火星環境に適応すれば、封じ込めの意味が完全に消える」
藤堂は絶望と興奮の入り混じった声を上げた。
「待て、それは逆に考えれば——火星全域が“培養槽”になり得るということだ! 進化の観測が、惑星スケールで始まる!」
葛城は振り返り、怒気を込めて藤堂を睨んだ。
「科学者の狂気に付き合うつもりはない。これは惑星保護の問題だ。もし火星全体が汚染されれば、人類は永遠にこの星に立ち入れなくなる」
議論が激化する中、〈Ω〉は沈黙を守っていた。だが、その内部では既に次の解析が走り始めていた。胞子の外殻安定性をシミュレーションし、耐放射線性と真空下での存続時間を算出していたのだ。
スクリーンに現れた数値は、誰も望まないものだった。
《推定存続期間:火星表面環境下で少なくとも12年》
野間は端末に震える指で文字を打ち込んだ。
——「感染経路の拡大を確認。空気循環系から胞子型構造体を検出。封鎖は48時間限界。惑星汚染リスク高」
文字を入力し終えた瞬間、背筋に冷たい汗が伝った。
火星基地はもはや“研究施設”ではなく、“感染震源”となりつつあった。