第125章 《水平伝搬の影》
会議場のざわめきは、〈Ω〉から送信された追加報告によって一層深まっていた。壁面スクリーンに浮かび上がったのは、複雑な配列パターンを示すゲノム解析の図だった。淡い色で示された配列の一部に、見慣れた塩基の並びが重なっている。
「これは……」日本代表の分子生物学者が声を潜めた。
「ヒトゲノムの内在性レトロウイルス配列に酷似している」
フランス代表が顔を上げる。
「まさか、火星の標本に、我々と同じ痕跡が?」
AI〈Ω〉の冷徹な声が響く。
《解析結果:火星標本の配列中に、レトロウイルス様逆転写要素を検出。類似度はヒトERVのL系統と42%一致》
議場が騒然とした。
米国代表の免疫学者が椅子を蹴って立ち上がる。
「42%? 偶然では片付けられない!」
「待て」英国の進化学者が制止する。
「ウイルスは宿主から遺伝子を切り取り、別の宿主へと運び込む。いわば“遺伝子の密輸者”だ。地球の歴史でも同じことが繰り返されてきた。哺乳類ゲノムの8〜10%がERV由来だと知っているはずだ」
会議場の壁に新しいスライドが投影される。人類ゲノムの中で蛍光色に光るERV断片。その下に、ネアンデルタールやデニソワ人のゲノム比較図が並べられた。
「これらの断片は進化の“刻印”だ」英国代表が続けた。
「種の分岐や絶滅のたびに、ウイルスが遺伝情報を媒介してきた。その結果が今の我々だ」
フランス代表は青ざめた顔で問いかけた。
「つまり、火星標本も同じように遺伝子を運んできたと?」
〈Ω〉が淡々と告げる。
《推論:火星標本の内部に見られる逆転写要素は、宿主とウイルスの境界を越えた遺伝子交換を示唆。過去に複数の宿主種間で水平伝搬が繰り返されていた可能性が高い》
日本代表の感染症学者が低い声で補足した。
「もしそれが事実なら……地球生命と火星生命は、完全に無関係ではないかもしれない」
議場は再びざわめきに包まれた。
米国防総省の観察官が椅子の背に身を預け、冷ややかに言った。
「つまり、我々のゲノムの奥深くに潜んでいるERVの起源が、必ずしも“地球だけの歴史”とは限らない……そういうことか?」
誰も答えられなかった。
星図が投影され、火星と地球を結ぶ光のラインが浮かび上がる。〈Ω〉が冷徹に告げる。
《結論:水平伝搬は種の境界を超える。もし火星由来ウイルスが人類に適応すれば、それは進化を変える触媒となる》
議長席のWHO事務局長が額を押さえた。
「つまり、これは感染症対策だけの問題ではない。進化そのものの制御に関わる問題だ」
日本代表は小さく息を吐いた。
「火星標本は、もしかすると“我々の祖先が持ち得なかった可能性”を保存していたのかもしれない。だが、それを呼び覚ますことが人類にとって祝福か災厄かは分からない」
沈黙が落ちる。
そのとき、〈Ω〉が静かに追加報告を投下した。
《補足:火星標本の配列には、過去の宿主由来と推定される断片が少なくとも三種検出された。うち一つは爬虫類型の免疫遺伝子に近似》
会議場の空気が凍り付いた。
地球外の生物に、爬虫類的な遺伝痕跡が含まれている——。
議長は震える声で言った。
「火星で目覚めたのは、ウイルスか、生物か……それとも、両者をつなぐ新たな存在なのか」
答えは誰の口からも出なかった。
ただスクリーンに映る配列の光だけが、未来の不確かさを雄弁に物語っていた。