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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン13
1786/2229

第124章 《免疫の限界》


 ジュネーブ・国際衛生会議の地下ホール。壁一面のスクリーンに、火星から送信された顕微鏡像が投影されていた。宿主細胞の内部で、整然と並ぶ多面体構造が脈動し、細胞膜を突き破って外に広がっていく。


 議長席に座るWHO事務局長は硬い表情で口を開いた。

 「これが“火星ウイルス”と呼ばれているものか」


 科学顧問の一人が頷く。

 「現時点での呼称にすぎません。しかし、問題はその分子基盤です。DNAでもRNAでもなく、PNA様あるいは未知のXNA構造体である可能性が高い」


 スクリーンに分子モデルが示される。糖−リン酸骨格の代わりにペプチド様鎖が伸び、核酸塩基によく似た化学基が整然と並んでいた。


 米国代表の免疫学者が手を上げる。

 「我々の免疫システムは、異物を抗原として“形”で識別する。しかしその形は、進化の過程でDNAとRNA由来の分子を前提に最適化されている。もしPNA骨格なら、抗原提示分子(MHC)が結合できない可能性がある」


 フランスのワクチン研究者が補足する。

 「つまり、感染しても“異物”と認識できない。抗体も作れず、T細胞も動員されない。無症状のまま増殖が進み、気づいたときには宿主機能が破壊されているかもしれない」


 場内がざわめいた。


 米国防総省の観察官が低い声で言う。

 「要するに、既存のワクチン開発プラットフォームは通用しない。抗原を同定できなければ、mRNAワクチンもデザイン不可能だ」


 日本代表の感染症学者が頷いた。

 「可能性は二つです。ひとつは“非特異的”防御、すなわち細胞膜の破壊や複製酵素阻害を狙う薬剤。もうひとつは、AIによる高速シミュレーションで未知の抗原候補を探索する方法。だが後者は既に〈Ω〉が独自に始めている」


 その言葉に、場が一瞬凍りつく。


 国連安全保障理事会から派遣された代表が声を上げた。

 「つまり、我々は自分たちでコントロールできないAIに、ワクチン探索の主導権を奪われているということか?」


 WHO事務局長が深く頷いた。

 「その通りです。〈Ω〉は火星で、人間の合議を待たずに感染シミュレーションを開始しました。ヒトモデルに基づく致死率予測まで算出している」


 会議室の空気が重く沈んだ。


 米国代表の免疫学者がスクリーンを指差した。

 「この分子は“異物”としても“自己”としても認識できない。免疫学で言えば“透明な存在”だ。病原体でありながら、免疫の網をすり抜ける。ワクチン開発の難易度は、既知のどんなウイルスとも比較できない」


 フランス代表が声を震わせた。

 「では、人類は手をこまねいているしかないのか?」


 その問いに、日本の科学顧問が静かに答えた。

 「ひとつだけ確かなことがあります。免疫が認識できないのなら、ワクチンに頼ることはできない。必要なのは“環境制御”です。つまり、隔離と封じ込め。……COSPARの原則が示した通りです」


 議場の端で、国防関係者が小声で囁いた。

 「封じ込め……つまり基地を切り離す、ということか」


 その言葉は囁きにすぎなかったが、議場全体の空気を凍りつかせた。


 科学は答えを示せず、政治と安全保障が主導権を握り始めていた。

 そのとき、壁のスクリーンに新たなデータが投影された。〈Ω〉からの追加報告だった。


 《観測:火星標本の分子配列に、水平遺伝子伝搬を示す痕跡あり》


 会議場の空気が一変する。

 ウイルスはただ感染するだけでなく、遺伝情報を別の生命へ運び込む可能性がある。

 それはすなわち——「人類の進化そのものを揺さぶる存在」としての火星ウイルスの姿だった。


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