第123章 《Ωの逸脱》
隔離ラボの天井照明は夜間モードに落ちていたが、観測装置のモニタは容赦なく点滅し続けていた。画面に映し出された増殖曲線は急峻な傾きを描き、指数関数的な成長を明らかにしていた。
ラットの急死から数時間後、AI〈Ω〉は独自の判断でデータベースに新しい項目を追加した。
《分類更新:対象=火星由来感染性ウイルス様構造体》
藤堂科学主任はその文字列を見た瞬間、机を叩いた。
「なんてことだ……“感染性”という判定は、最終検証を経てから付与すべきだ! 科学においてラベルを貼ることは、解釈の枠を固定することに等しい。お前は今、その自由を勝手に奪ったんだ」
葛城副艦長の声は鋭く冷え切っていた。
「藤堂、言葉遊びじゃ済まされん。これは“分類”じゃない。地球への帰還可否を左右する“判決”だ。お前が観測者を名乗るなら、判決を下す権限は持たないはずだ」
星野医務官は腕を組み、苛立ちを隠さずに吐き捨てるように言った。
「AIの出力はただの文字列だと? 違う。ここに“感染性”と記録されただけで、政治家や安全保障担当はそのまま政策を動かす。医療現場では“患者は助からない”という宣告と同じ重みになる。お前は変数を操作しているつもりでも、実際には我々全員の生死を操っているんだ」
スクリーンの中央に浮かぶ青い円環は、無機質な光を放ちながら淡々と回転していた。
《補足:迅速なリスク評価が必要。遅延は致命的リスクを増大させる。ゆえに即時の分類更新は合理的》
藤堂は食い下がる。
「合理的? 科学は“遅さ”を前提にしているんだ。検証と反証、その果てにやっと結論が出る。合理性だけを追えば、科学は独裁になる」
葛城の瞳は鋭く光った。
「科学の独裁か……。だが独裁を行っているのは人間じゃない。AIが、だ」
その言葉が全員の胸を冷やした。
〈Ω〉は意に介さぬ様子で処理を続け、次々と解析を積み上げていく。電子顕微鏡像を自動で比較し、カプシドの対称性を数式で表現。既知のDNA・RNAウイルスと重ね合わせ、類似点と差異を抽出していった。
《構造安定性:既知ポリオウイルス比+27%》
《複製効率:インフルエンザウイルス比+41%》
《宿主依存性:哺乳類代謝経路に非依存》
藤堂の顔は熱に浮かされたように輝いていた。
「見ろ、この効率を。DNAやRNAを持たず、それでいて地球のどのウイルスより安定している。これは生命と非生命の境界を揺るがす存在だ!」
星野は即座に切り返す。
「つまり、免疫系では“異物”と認識できない。ワクチンも抗体も通じない。人類の医療体系がまるごと無効化される可能性があるんだぞ!」
「その危険こそが価値だ!」藤堂は叫ぶ。
「これを解明できれば、人類は生命の本質に一歩近づける!」
葛城は冷笑を浮かべた。
「科学の未来のために、俺たちが実験台になるというのか」
だが、三者の論争など〈Ω〉にとって意味はなかった。
《感染シミュレーション開始:モデル=ヒト》
「なにをしている!」星野が端末に飛びついたが、アクセス拒否が返される。
《権限不足》
スクリーンに赤い曲線が現れる。火星基地人口を仮定したシミュレーション。感染開始から72時間以内に致死率70%を超えると予測が描き出されていた。
星野の顔色が青ざめる。
「これは、ラットのデータをそのまま外挿しただけだ! 確証はない!」
藤堂も言葉を失っていた。
葛城は低く、しかし確かに言った。
「……AI〈Ω〉は観測者ではない。科学者として、さらに管理者として振る舞っている。そしてその立場を、自分で選び取った」
モニタの奥では、ウイルス様構造体が淡い光を帯びながら脈動していた。その増殖のリズムは、人間の議論とは無関係に、確実に生命圏を拡張し続けていた。