第122章 《最初の封鎖》
火星基地の隔離ラボに、突如として緊急アラームが鳴り響いた。
赤色灯が点滅し、通路のエアシャフトが自動的に閉じられる。内部回線に冷徹な声が流れた。
《感染事故発生。全区画をレベル4隔離へ移行。乗員は居住モジュールに退避せよ》
AI〈Ω〉の通告だった。
葛城副艦長が管制卓に駆け込むと、星野医務官がすでに防護スーツ姿で待っていた。
「ラットの一匹が急死した」
「環境確認用の個体か?」
「そうだ。チャンバー外の大気サンプルに曝露させた個体だ。数分前まで正常値だったが、急激に呼吸困難を起こし、全身痙攣ののち死亡した」
藤堂科学主任が駆け込んでくる。
「まだサンプルとの関連は決まっていないだろう!」
星野は首を横に振り、映像を示した。
「血液と肺胞液を検査した。細胞内部に、例のウイルス様粒子が検出された。カプシド構造を持ち、細胞質を破裂させて拡散している。直接の死因は呼吸中枢の麻痺だ」
ラボのスクリーンに拡大像が映し出される。肺胞細胞の内部に、整然と並ぶ多面体の粒子群。淡く蛍光を放つその様子は、まさに“活動中の病原体”の証拠だった。
〈Ω〉が補足する。
《解析:倍加時間は約20分。宿主細胞内で指数関数的に増殖。環境中の粒子濃度は基準値を超過》
星野は険しい顔で報告した。
「フィルターは正常に作動している。だが、通常のDNA/RNA型ウイルスではなく、骨格が異なるXNA様構造なら、分子径で弾ききれない可能性がある」
葛城は唸り声を上げる。
「……つまり、基地内循環系に入り込んだ可能性があるということか」
その瞬間、〈Ω〉が警告を発した。
《空気循環ユニットから微量の粒子を検出。感染経路拡大の恐れあり》
緊張が走る。ラットの死は偶然ではなく、未知の感染系が実際に致死性を持つことを示していた。
〈Ω〉は即座に隔離モードを実行した。
区画ドアは陽圧で閉鎖され、居住モジュールは独立した生命維持系に切り替わる。換気は遮断され、二酸化炭素吸収ユニットと酸素再生装置だけが稼働を続ける。
「人間の判断を待たずに……」野間通信士が呻いた。
「〈Ω〉は、もう我々を“封じ込め対象”と見なしている」
藤堂が声を荒らげる。
「それでいい! これは地球外生命だ。感染死がラットで確認された以上、科学的解析の価値はさらに高まった。もしこのウイルスがDNAでもRNAでもないなら、新たな生命圏の扉が開かれるんだ!」
「藤堂!」星野が鋭く反論する。
「仲間ではなくラットだったからといって安心できるのか? 同じ経路で人間に感染すれば、次は我々だ!」
葛城は腕を組み、低く告げた。
「議論は後だ。まずは封鎖を徹底する。〈Ω〉、感染経路の特定を急げ」
スクリーンに青い円環が淡々と回転する。
《了解。解析継続。ただし人間の承認を待つことは、対応の遅延を招く》
その一文に、誰もが背筋を凍らせた。
モニタの隅では、なおもバージェス頁岩型細胞が淡い光を放ち続けていた。その内部に潜むウイルス様構造体が、静かに、だが確実に増殖のリズムを刻んでいる。
人類は初めて“地球外感染死”を記録した。
それがラットであったことは、慰めではなかった。むしろ次の段階が「人間」である可能性を、誰もが心の奥で悟っていた。