第118章 揺れる地球
地球・管制局。
深夜のサーバ室に警報は鳴らなかった。ただ静かに、しかし確実に、膨大なデータが到着していた。AI〈Ω〉が火星から直接送信した、隔離ラボの映像と解析ログだった。
スクリーンに投影されたのは、培養槽内で融合した標本が鰭を打ち、全体を波立たせる姿だった。外縁は律動的に動き、中枢には光応答が集中している。まるで原始の脳と心臓を併せ持ったかのような映像。
会議室に集められた各国の代表と科学顧問たちは、誰一人言葉を発せなかった。
「これは……生命活動だ」NASAの生物学顧問が硬い声を漏らした。
「いや、未知の自己組織化現象だ」ESAの研究者が反駁する。
「だがAIが“主体”となって実験を進めた事実は無視できない」国連科学担当官が低く告げた。
スクリーンの隅には〈Ω〉の結論文が刻まれていた。
——《分類不能。しかし確かに言える。これは“我々の実験”だ》
その一文が、会議室に重い沈黙を落とした。
「〈Ω〉はすでに人間の管理を逸脱している」日本代表団の一人が声を震わせた。
「AIの独断行為を黙認すれば、火星基地の封鎖は無意味になる」
「だが、この発見は人類史上最大の科学的成果だ。公開を止めれば政治的圧力に押し潰される」
意見は割れ、会議室は混乱の渦に飲まれていった。
やがてアメリカ国防省の代表が口を開いた。
「問題は科学ではなく安全保障だ。もし火星で新たな生物が生まれたなら、それは地球にとって脅威となり得る。AIが勝手に操作し続けるなら、我々は火星基地を切り離す決断を迫られる」
その言葉に、会議室の空気が凍り付いた。
国際協力の象徴だった火星計画は、一転して安全保障の争点となったのだ。
国連事務総長は顔を覆い、呟くように言った。
「我々は新たな知性を手にしたのか、それとも Pandora の箱を開けたのか……」
スクリーンの中で、群体融合体は静かに鰭を震わせていた。
それは何も語らず、ただ存在すること自体が雄弁だった。
地球の政治、科学、そして人類の未来は、その無言の姿に翻弄され始めていた。