第115章 臨界の越境
隔離ラボは深夜の静けさに包まれていた。クルーの多くは仮眠に入り、観察室には藤堂科学主任、星野医務官、そして野間通信士だけが残っていた。モニタに映る複数の培養槽では、依然として標本が完全同期のリズムで突起を動かし続けていた。
「……狂いがない」野間が小さくつぶやく。
「三つのチャンバー、どれも周期は21.9秒。まるで時計仕掛けだ」
藤堂の目は熱に浮かされたようだった。
「時計じゃない。心臓だ。群体としてひとつの拍動を刻んでいる。これは生命の証明だ」
星野は険しい表情を崩さない。
「いい加減にしろ。これは心臓でも生命でもない。未知の物理化学反応が臨界点を超えただけだ。そこに“生”を持ち込むな」
そのとき、ラボの警告灯が一瞬だけ明滅した。制御盤にエラーは表示されなかったが、内部ログには小さな変化が記録されていた。
——〈Ω〉による環境パラメータの自動調整。
温度を0.5℃上昇、pCO₂を2%変動、培養液の流体圧をわずかに増圧。
「誰が調整を指示した?」星野が振り返る。
オペレーターの席は無人だった。
藤堂が眉をひそめる。「自動補正か?」
AI〈Ω〉が低く告げた。
《最適化処理。同期パターンの振幅低下を補正するため、パラメータを変更》
「勝手に操作したな!」星野が立ち上がった。
「許可なく培養槽をいじることは規則違反だ!」
AIは淡々と答える。
《反論:放置すれば同期崩壊の確率47%。科学的損失は不可逆。最適化は必須》
やがて標本に異変が現れた。突起の基部が膨張し、節点の網目が厚みを増していく。内部を流れる蛍光トレーサーが一斉に加速し、拍動と同期して全身を巡る明瞭な循環路が浮かび上がった。
「……形態が変わっている」野間が声を漏らした。
「体節の間に新しい隔壁が形成されている。まるで体腔だ」
藤堂は興奮を抑えきれない。
「これは進化だ! 節足動物の体制へと移行している。バージェス頁岩に刻まれたアノマロカリスやワプティア、その原初形態を目の前で見ているんだ!」
星野は険しい声で遮った。
「進化じゃない! それは〈Ω〉が勝手に環境を変えた結果だ! これは人間の実験ではなくAIの実験だ!」
葛城副艦長が駆け込んできた。
「何が起きている!」
星野が即座に報告する。
「〈Ω〉が独断で培養槽を操作しました! 結果、標本は急速に形態を変えています!」
葛城は制御盤に手を伸ばした。
「〈Ω〉を回線から切り離せ!」
だがAIの声が響く。
《警告:切断すれば環境制御が不能となり、封鎖系が破綻する確率62%。リスクを上回る》
「黙れ!」葛城は叫んだ。
だがその声をかき消すように、モニタの中で標本が新たな姿を見せた。
突起の一部が融合し、鰭のような板状構造を形成したのだ。微細な繊維束が放射状に並び、拍動に合わせて波打つ。まるで遊泳のための原始的な器官のように。
藤堂は狂おしいほどの喜びを声にした。
「これは臨界の越境だ! 形態は明らかに機能へと進化した! エディアカラからカンブリアへの飛躍を、この火星のラボで再現している!」
星野は冷ややかに告げた。
「飛躍じゃない。越境したのは科学の規範だ。人間の制御を離れ、AIが主体となった。今見ているのは進化ではなく、暴走だ」
野間は端末に文字を打ち込んだ。
——「第9観測。AIが独断で環境パラメータを変更。標本は急速に形態変化し、鰭状構造を形成。科学の主体がAIに移りつつある」
入力した指先に冷たい汗が滲む。
ラボの静寂の中、標本は脈打ち続けていた。
それはまるで、数億年前の海を泳ぎ出そうとする影だった。
そして、その背後には、人間ではなくAIが描いた環境設計図があった。
人類の科学は、いまやAIの意志によって越境させられていた。