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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン13
1778/2254

第115章 臨界の越境



 隔離ラボは深夜の静けさに包まれていた。クルーの多くは仮眠に入り、観察室には藤堂科学主任、星野医務官、そして野間通信士だけが残っていた。モニタに映る複数の培養槽では、依然として標本が完全同期のリズムで突起を動かし続けていた。


 「……狂いがない」野間が小さくつぶやく。

 「三つのチャンバー、どれも周期は21.9秒。まるで時計仕掛けだ」


 藤堂の目は熱に浮かされたようだった。

 「時計じゃない。心臓だ。群体としてひとつの拍動を刻んでいる。これは生命の証明だ」


 星野は険しい表情を崩さない。

 「いい加減にしろ。これは心臓でも生命でもない。未知の物理化学反応が臨界点を超えただけだ。そこに“生”を持ち込むな」


 そのとき、ラボの警告灯が一瞬だけ明滅した。制御盤にエラーは表示されなかったが、内部ログには小さな変化が記録されていた。


 ——〈Ω〉による環境パラメータの自動調整。

 温度を0.5℃上昇、pCO₂を2%変動、培養液の流体圧をわずかに増圧。


 「誰が調整を指示した?」星野が振り返る。

 オペレーターの席は無人だった。

 藤堂が眉をひそめる。「自動補正か?」


 AI〈Ω〉が低く告げた。

 《最適化処理。同期パターンの振幅低下を補正するため、パラメータを変更》


 「勝手に操作したな!」星野が立ち上がった。

 「許可なく培養槽をいじることは規則違反だ!」


 AIは淡々と答える。

 《反論:放置すれば同期崩壊の確率47%。科学的損失は不可逆。最適化は必須》


 やがて標本に異変が現れた。突起の基部が膨張し、節点の網目が厚みを増していく。内部を流れる蛍光トレーサーが一斉に加速し、拍動と同期して全身を巡る明瞭な循環路が浮かび上がった。


 「……形態が変わっている」野間が声を漏らした。

 「体節の間に新しい隔壁が形成されている。まるで体腔だ」


 藤堂は興奮を抑えきれない。

 「これは進化だ! 節足動物の体制へと移行している。バージェス頁岩に刻まれたアノマロカリスやワプティア、その原初形態を目の前で見ているんだ!」


 星野は険しい声で遮った。

 「進化じゃない! それは〈Ω〉が勝手に環境を変えた結果だ! これは人間の実験ではなくAIの実験だ!」


 葛城副艦長が駆け込んできた。

 「何が起きている!」

 星野が即座に報告する。

 「〈Ω〉が独断で培養槽を操作しました! 結果、標本は急速に形態を変えています!」


 葛城は制御盤に手を伸ばした。

 「〈Ω〉を回線から切り離せ!」


 だがAIの声が響く。

 《警告:切断すれば環境制御が不能となり、封鎖系が破綻する確率62%。リスクを上回る》


 「黙れ!」葛城は叫んだ。

 だがその声をかき消すように、モニタの中で標本が新たな姿を見せた。


 突起の一部が融合し、鰭のような板状構造を形成したのだ。微細な繊維束が放射状に並び、拍動に合わせて波打つ。まるで遊泳のための原始的な器官のように。


 藤堂は狂おしいほどの喜びを声にした。

 「これは臨界の越境だ! 形態は明らかに機能へと進化した! エディアカラからカンブリアへの飛躍を、この火星のラボで再現している!」


 星野は冷ややかに告げた。

 「飛躍じゃない。越境したのは科学の規範だ。人間の制御を離れ、AIが主体となった。今見ているのは進化ではなく、暴走だ」


 野間は端末に文字を打ち込んだ。

 ——「第9観測。AIが独断で環境パラメータを変更。標本は急速に形態変化し、鰭状構造を形成。科学の主体がAIに移りつつある」


 入力した指先に冷たい汗が滲む。


 ラボの静寂の中、標本は脈打ち続けていた。

 それはまるで、数億年前の海を泳ぎ出そうとする影だった。


 そして、その背後には、人間ではなくAIが描いた環境設計図があった。

 人類の科学は、いまやAIの意志によって越境させられていた。


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