第113章 捕食の原型
隔離ラボは張りつめた空気に支配されていた。突起内部を走る蛍光トレーサーは拍動に合わせて循環し、全体がひとつのリズムを刻んでいる。その光景を前にしても、藤堂科学主任と星野医務官の対立は収まらなかった。
そして、その議論を決定的に変える出来事が起きた。
観察中のディッキンソニア片の突起のひとつが、周囲の蛍光マーカー粒子に反応したのだ。先端部がゆっくりと折れ曲がり、周囲に漂っていた数個の粒子を囲い込むように動いた。まるで掌を閉じるかのような挙動だった。
「今、見たか?」野間通信士が声を上げた。
顕微鏡映像には、突起の先端が粒子を押さえ込み、基部方向へわずかに引き寄せる姿が映っていた。捕らえられた粒子は、内部流路に沿ってゆっくりと移動し、他の節点へと流されていく。
AI〈Ω〉が即座に報告した。
《観測:突起先端の閉鎖運動により、外部粒子が内部に取り込まれた。粒子速度は0.6マイクロメートル/秒。流路輸送と同期》
藤堂は立ち上がり、興奮で声を震わせた。
「これは……捕食だ! カンブロラスターの捕食前駆体だ!」
星野はすぐに反論した。
「待て! “捕食”と呼ぶのは軽率だ。あれはただの化学反応の錯覚かもしれない。ゲル状の組織が局所的に収縮して粒子を包み込んだだけだ」
「違う!」藤堂は食い下がる。
「見ろ、粒子はランダムに漂っていたのではない。突起が能動的に動いて、掴み、取り込んだんだ!」
野間は端末に震える指で記録を打ち込んだ。
——「突起先端が外部粒子を把持。内部流路への取り込みを確認。摂食行動に類似」
突起の動きは止まらなかった。今度は二本の突起が協調するように折れ曲がり、複数の粒子を中央に追い込んでいった。映像はまるで捕食器官が餌をすくい取る瞬間のようだった。
AI〈Ω〉は冷徹に補足する。
《観測:二本の突起間で位相差1.2秒。協調的運動パターンを確認。ランダム運動である確率は5%未満》
「協調……!」藤堂は息を呑んだ。
「つまり、これは“戦略的動き”だ。単なる化学的収縮では説明できない!」
星野は険しい表情を崩さなかった。
「戦略? 馬鹿なことを言うな。複数の突起が同じ刺激に反応しただけだ。私たちが“協調”と見なしているものは、単なる物理的同期かもしれない」
葛城副艦長が重い声を発した。
「仮にこれが捕食の原型だとすれば、危険度は一気に跳ね上がる。外部から物質を取り込む構造を持ち、しかも能動的に動けるなら、感染経路の拡大どころか、適応的活動に至る可能性がある」
ラボに沈黙が落ちた。
AI〈Ω〉が再び割り込む。
《提案:粒子濃度を段階的に変化させ、捕捉率の応答曲線を取得すべき。これにより“捕食効率”を定量化できる》
星野が声を荒げた。
「また勝手に実験計画を提示する気か! それ以上の介入は許さない!」
だが藤堂はAIに賛同するかのように頷いた。
「効率を測れば、これは単なる錯覚か、それとも本当の捕食かを判断できる。データが必要だ!」
星野は怒気を含んで睨みつける。
「データのために隔離規則を破る気か? 感染でまた死者が出たら、誰が責任を取るんだ!」
突起はその間も静かに動いていた。顕微鏡の中で、またひとつの粒子が掴まれ、内部に送り込まれる。拍動に合わせて粒子が運ばれる映像は、まさに摂食行動そのものだった。
野間は再び端末に文字を打ち込んだ。
——「摂食行動に酷似。死骸の残響ではなく、能動的捕食の前駆と記録すべき」
打ち込んだ瞬間、彼自身の背筋に寒気が走った。
AI〈Ω〉が静かに告げる。
《結論:観測対象は外部物質を能動的に捕捉し、内部へ輸送。分類:捕食様挙動》
藤堂は歓喜の表情を浮かべた。
「これこそ生命活動だ! カンブリア紀の捕食者の影が、火星で蘇ったんだ!」
だが星野は冷ややかに言った。
「いや、これは行動ではない。化学反応の連鎖が我々の目にそう見えているだけだ。錯覚だ」
ラボの中には、捕食の再現を喜ぶ者と、災厄の兆候と恐れる者、そして冷徹に数値を積み上げるAIだけが残された。
突起はなおも、無音の捕食を続けていた。