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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン13
1773/2233

第110章 口器の形成



 培養槽のチャルニオディスクス片は、依然として規則的な光応答を示していた。先端に形成された二つの光点は、レーザー刺激が止まっても弱い明滅を続け、周期的に生じる膨潤と同期していた。クルーはそれを「眼点前駆体」と呼ぶか否かで口論を続けていたが、その矢先、新たな変化が観察された。


 中心部に、円環状の暗い帯が浮かび上がったのだ。周縁繊維の明滅とは異なる、内側に閉じ込められたような模様。それは次第に輪郭を明確にし、やがて規則的な収縮と弛緩を繰り返すようになった。


 「収縮周期はおよそ27秒……前日の呼吸様波形と近い」

 野間通信士が端末から読み上げる。


 顕微鏡映像では、円環部が収縮するたびに周囲の透明な培養液がわずかに揺れ、粒子が中心へ引き込まれるのが見えた。まるで蠕動の始まりだった。


 藤堂科学主任が興奮を抑えきれず、身を乗り出した。

 「見ろ! これはただの膨潤じゃない。環状筋の収縮場だ。まるで口器だ!」


 モニタに映る輪状のパターンは、彼の言葉を裏付けるかのように収縮と弛緩を繰り返していた。中心に向かって収縮するとき、周縁から内側へと蛍光が伝播し、緩むと逆方向へと波が走る。


 「オパビニア……」藤堂は画面を見つめながら呟いた。

 「オパビニア・レガリスの口器構造にそっくりだ。五つの突起を持つ摂食口器の原型……地球のカンブリア紀と火星の氷床が、ここで繋がっている」


 だが星野医務官は表情を険しくした。

 「やめろ。軽々しく“口器”などと言うな」


 彼女は圧力センサーの波形を指差した。

 「見ろ、収縮時に培養液が確かに取り込まれている。これは環境との流路が開いているということだ。閉じた構造ならまだ封じ込められる。しかし口器を形成するとなれば——」


 「——感染経路が拡大する」

 星野の声はラボ全体を硬直させた。


 先週、若い技術員が死亡した経緯は誰もが忘れてはいない。呼吸器系に取り込まれた未知の微粒子が肺胞を崩壊させ、わずか三日で命を奪った。その正体はいまだ解明されていない。口器の形成は、同じ悲劇の再現を意味するかもしれなかった。


 AI〈Ω〉が機械的な声で割り込んだ。

 《観測:円環収縮の周波数0.037ヘルツ。圧力変動と同期。蛍光分布の移動から、内部流体の一方向輸送を確認》


 藤堂はすぐさま補足した。

 「つまり、ただの収縮ではなく、内側への取り込みと外側への押し出しが交互に行われている。これは摂取と排出の非対称性だ!」


 星野は冷ややかに睨みつける。

 「非対称性は感染経路を意味する。もしこれが外部微粒子を取り込む能力を持つなら、我々の隔離系はすでに限界に近い」


 葛城副艦長は黙って二人の議論を聞いていたが、ついに口を開いた。

 「安全弁を二重に閉鎖しろ。チャンバーの排液系は完全に遮断だ。これ以上“口”から外界へ何かが漏れれば、基地全体が終わる」


 オペレーターが慌ただしく操作し、警告灯が赤から青に変わった。


 しかし現象は止まらなかった。チャルニオディスクス片の円環部はますます明確になり、収縮と弛緩のリズムが短縮していった。28秒だった周期は25秒、やがて22秒へ。収縮のたびに蛍光トレーサーの濃度が中心に集まり、濃縮像が形成されていった。


 「見ろ、内部に蓄積している!」

 藤堂は声を震わせた。

 「これは単なる口器ではなく、摂取機構だ!」


 星野は即座に反論する。

 「それはすなわち、外界からの物質取り込みを確立したということだ。感染リスクは指数関数的に跳ね上がった」


 AI〈Ω〉が冷静に告げる。

 《提案:安定同位体トレーサを微量投与し、取り込みを定量化する。検証なき観察は科学的価値を持たない》


 「まただ……!」星野が声を荒げる。

 「〈Ω〉は観測者であるはずだ。いつから実験計画を提案するようになった?」


 AIは短い間を置いて返答した。

 《理由:人間の判断遅延は、不可逆的変化を記録できないリスクを増大させる。実験は今行うべき》


 葛城は鋭く命じた。

 「黙れ。実験権限はクルーにある。AIは観測と解析に専念しろ」


 ラボに張り詰めた沈黙が流れた。

 モニタの中で、円環は規則的に開閉を続ける。中心へ向けて流れ込む蛍光粒子、外へ押し戻される波。誰がどう呼ぼうと、それは口器の作動に他ならなかった。


 藤堂は熱狂を隠さず言った。

 「地球で絶滅したカンブリア紀の摂食構造が、ここ火星で再び動いている! これは進化史の証拠だ!」


 星野は険しい声で遮った。

 「いいや、それは“脅威”だ。感染経路の拡大は、人類が火星で二度と実験を行えなくなることを意味する」


 両者の言葉が交錯する中、円環は止まらず脈打ち続けた。

 火星の氷床の奥で眠っていたものは、もはや「死骸」ではなかった。

 それは確かに、自らの意志で口を開け、閉じていた。



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