第108章 関節の兆候
翌日、培養槽のチャルニオディスクス片を映し出すモニタに、再び異変が記録された。前夜、突起として観測された構造がさらに伸長し、節目ごとにくびれを持つ形態に変化していた。
「くびれの数は五つ。等間隔ではないが、基部に近いほど大きく、先端は細い」
オペレーターが淡々と読み上げる。
藤堂科学主任は顕微鏡像に釘付けになっていた。
「……これは関節だ。単なる膨潤ではない。曲げ点が明確に決まっている」
星野医務官は腕を組み、冷ややかに反論する。
「だが生物の関節であるとは限らない。水和・乾燥の差によって硬度の勾配ができれば、屈曲点は自然に生じる」
AI〈Ω〉が即座に補足した。
《解析:節点の屈曲角度は25〜40度。繰り返し試験で同一角度に戻る傾向あり。単なる物理膨潤よりは、構造的規則性を示唆》
「弾性の記憶がある……」藤堂は低く呟いた。
「これは動くための“設計”だ」
数時間の観察の後、突起は自発的にわずかに屈曲を繰り返し始めた。顕微鏡映像では、基部から先端へ順にしなるように動く。
「……波の伝播?」野間通信士が小さく声を漏らす。
「否定できない」藤堂が答える。
「これは筋肉のような収縮器官があるとは限らない。だが、関節の連鎖運動そのものだ」
星野は強く首を振った。
「筋肉も神経も存在しないのに運動? それは錯覚だ。化学的な収縮膨張が連鎖しているだけだ」
だがAI〈Ω〉は冷徹に数値を示した。
《波動伝播速度:1.1ミリメートル/分。規則性のある遅延時間を伴う。外部温度変動では説明困難》
その報告に、ラボの空気がさらに重くなる。
ディッキンソニア片にも変化が現れた。従来は楕円体に等間隔のリブが並んでいるだけだったが、ある部分のリブが二重に折れ曲がり、関節状の可動点を形成し始めたのだ。
「複数の種が、同じく“節”を作り始めている……」野間は端末に震える指で記録を打ち込んだ。
藤堂はその光景を凝視し、押し殺すように言った。
「これは進化の証拠だ。エディアカラ型の不動的生物が、カンブリア型の運動構造へ移行した……まるで、保存されていた設計図が再生している」
星野は鋭く反論する。
「進化ではない。これは“別の系統”が同時に保存されていたに過ぎない。……だが、もしこれが本当に可動肢なら、感染リスクは桁違いに跳ね上がる」
次に行われたのは、微弱電気刺激実験だった。培養槽の突起にナノアンペア単位の電流を流すと、節ごとに応答が起き、屈曲のパターンが変化した。
「屈曲の角度が増した! 先端部の動きが明確になっている」
藤堂が興奮して声を上げる。
星野は制止の声を上げた。
「危険だ。刺激に反応するということは、未知の電気化学機構が動作しているということだ。これは死骸ではない」
AI〈Ω〉が解析を補足する。
《応答遅延:基部から先端へ0.8秒。連鎖的パターンを保持。人工的電気刺激に同期した運動》
「……まるで神経伝導だ」野間が呟く。
葛城副艦長は黙って観察していたが、やがて口を開いた。
「このまま関節構造が発達すれば、掴む、歩く、泳ぐといった行動につながる。……その時、我々の封鎖システムは持ちこたえられるか?」
誰も答えられなかった。
突起の成長はさらに続き、顕微鏡像では付属肢全体が「Y字状」に広がり始めた。関節を複数持ち、基部に近い部分が太く、先端に行くほど細い。まさに節足動物の付属肢を思わせる形態だった。
藤堂はその姿に目を奪われた。
「これは……マレラだ。バージェス頁岩で知られる、あの節足動物の原型そのものだ」
星野は苦い表情を浮かべた。
「もしそうなら、我々は“絶滅した系統の再生成”を目撃している。だが、それは科学ではなく、災厄の始まりかもしれない」
ラボに漂う静寂を破ったのは、AI〈Ω〉の冷徹な声だった。
《結論:現象は“関節様運動”と分類可能。生命活動か否かは未定義。ただし、構造の複雑化は統計的に進行中》
野間は記録端末に文字を打ち込んだ。
——「第2観測日。付属肢様の分岐構造が顕在化。関節状の可動点、電気刺激への応答を確認。マレラ型節足動物との類似が強まる」
入力を終えたとき、彼は背筋に冷たい汗を感じた。
氷床から解き放たれたのは、単なる過去の亡骸ではない。
進化の設計図そのものが、火星で目を覚ましつつあった。