第105章 境界の越境
隔離ラボは深夜の静けさに包まれていた。だがモニタに映るチャルニオディスクスとディッキンソニアの映像は、不気味なほどに生々しい。先ほどまでレーザー刺激で示した周期的な蛍光発光は記録映像として残され、クルーの間で議論を呼んでいた。
「次は環境ガスの変化を試す」
葛城副艦長の声は淡々としていた。
「二酸化炭素をベースに微量の窒素と酸素を加え、段階的に条件を変える。反応が物理現象か生物的現象かを切り分けるためだ」
マイクロフルイディクス培養槽のガスチャンバーが調整され、CO₂濃度がゆっくりと上昇する。チャルニオディスクス片の繊維束は直ちに膨潤し、節点ごとに微細な気泡を生じた。
「ガス交換を開始。O₂センサー、変化をモニター」
オペレーターの声に続いてデータが流れる。
「酸素濃度、0.003パーセント上昇……周期波形を伴う」
野間通信士が目を見開く。
「またリズムだ……今度は約45秒周期。前の酸素発生とほぼ同じだ」
藤堂科学主任はスクリーンに食い入った。
「ガス注入の物理的拡散では説明できない。同調性がありすぎる。……これは代謝の残響だ」
星野医務官は鋭く反論する。
「まだ決めつけるな。過酸化物の化学分解でも周期的な揺らぎは出る。温度差や拡散の遅延で波形が生じることもある」
しかし次の瞬間、さらに異様な現象が現れた。ディッキンソニア片の体節構造が順に膨張し、波が走るようにリブが動いたのだ。その動きとチャルニオディスクスの酸素波形は完全に同期していた。
「……二つの異なる種が同じリズムで応答している」藤堂の声が震える。
「これは……まるで“コミュニケーション”だ」
AI〈Ω〉が冷徹に補足する。
《解析:チャルニオディスクスの酸素発生周期 45±3秒。ディッキンソニアの体節膨張周期 46±2秒。相関係数0.91。統計的に強い同期性を確認》
葛城は短く頷いた。
「つまり、二つの標本は“同じリズムで動いている”。それが生物的な制御か、物理的な偶然かは——まだ断定できん」
議論が続く。
藤堂:「酸素発生と体節運動の相関は偶然ではない。代謝ネットワークの残存だ」
星野:「では説明しろ。なぜ死んだ仲間の肺を破壊した微生物は、この構造体と同時に出てきた? 同じ系統なら、我々はすでに感染源の中にいる」
野間:「……もし両方が関連していたら? これは単なる古代生物ではなく、“火星に今も生きている系統”の断片かもしれない」
ラボの空気が凍りつく。感染死の記憶が再びよみがえり、全員の胸を締め付けた。
さらに条件を変化させる。CO₂を減らし、O₂を微量増加させると、チャルニオディスクス片の繊維網が急速に収縮した。節点が明滅し、強い光を一斉に放つ。
「光強度が急上昇! 通常の蛍光を超えている」オペレーターが叫ぶ。
藤堂は興奮気味に分析する。
「酸素濃度を変えた瞬間に光強度が跳ね上がった。これは光合成色素の残骸ではない。酸化還元反応のフィードバックだ!」
星野は険しい表情で首を振った。
「確証はない。酸素が増えて酸化反応が加速しただけかもしれない。だが……」
言葉を切った。自分自身の心が揺れていることを悟ったからだ。
次に窒素を導入すると、ディッキンソニアの体節の膨張が収まった。だが完全に静止したわけではない。今度はチャルニオディスクスの枝先が独立した周期で点滅を始めた。リズムは20秒。
「……条件によって応答が切り替わっている」野間が呟いた。
「まるで、環境に合わせて“モードを変えている”みたいだ」
AI〈Ω〉が解析を更新する。
《応答周期は環境ガス組成に依存。CO₂優勢条件下:45秒周期。O₂増加条件下:強光発光。N₂優勢条件下:20秒周期の点滅。これは“環境適応的挙動”に類似》
藤堂は拳を握った。
「適応だ……これは偶然じゃない」
星野は苦々しい表情を浮かべた。
「適応か、単なる化学的依存か。その境界を我々は越えられない。……それでも君は“生命”と呼ぶのか?」
葛城副艦長は長い沈黙の後、低く言った。
「この現象は物理でも化学でも説明できる。だが同時に、“生命の再生”としか思えない一線を踏み越えている」
野間は端末に震える指で打ち込んだ。
——「境界が崩れつつある。死骸と生命、物理と代謝の境界が」
その文字が記録として保存された瞬間、全員が理解していた。
火星の氷床で眠っていたのは、ただの化石ではなかった。境界を越える存在だった。