表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン13
1766/2290

第103章 倫理の葛藤




 培養槽が凍結ストレージに収められた後、隔離ラボの空気はさらに重く沈んでいた。数時間ごとに繰り返されるリズミカルな膨潤、酸素濃度の微増、体節の波のような膨張。すべてを「物理現象」と片付けるには難しすぎた。


 だが同時に、先週の死の記憶は生々しく残っている。若い技術員が咳を始めてから肺が白濁するまで、わずか三日。抗生剤も抗ウイルス薬も効果はなく、死因は「未知の外来因子」としか記録できなかった。


 葛城副艦長は重い声で切り出した。

 「これ以上の実験は、基地全体を危険に晒すかもしれん。だが、やめれば全てのデータは“仮説止まり”になる」


 藤堂科学主任はすぐに反論した。

 「だからこそ続けるべきだ! ここにあるのは、地球の進化史を覆す存在だ。ディッキンソニアの体節運動、チャルニオディスクスの光応答。もし再生が可能なら、“動物”と“植物”の分岐を再検証できる」


 星野医務官は険しい表情で立ち上がった。

 「再生? 言葉を慎め。これは生命かどうかも分からない“危険物”だ。あなたは仲間の死を忘れたのか」


 沈黙を破ったのは、壁際のスピーカーから響いた無機質な声だった。

 《発言許可:研究支援AI〈Ω〉》


 AI〈Ω〉は、実験ログとリスク解析をリアルタイムで管理していた。冷徹な声がラボを満たす。

 《統計更新:培養槽内からの酸素発生は、無機的分解で説明できる確率42%、生体由来である確率58%。感染リスク評価レベルは前回死亡事例を基準にカテゴリーX。作業継続は“重大リスクを伴う”》


 藤堂が苛立ちを隠さずに声を荒げる。

 「お前は数値でしか語れない。だが、科学の前進はリスクを受け入れることで成し遂げられてきた!」


 AIは即座に応答した。

 《反論:リスク受容は集団の同意を前提とすべき。死亡者を出した直後の小規模クルーは、その条件を満たしていない》


 星野はその言葉に頷いた。

 「正しい。私たちは仲間を守る義務がある」


 だが葛城は腕を組んだまま黙っていた。彼の視線は端末に並ぶデータ波形に注がれている。


 議論は続いた。


 藤堂:「このまま封印すれば、人類史上最大の発見を見逃す。地球に帰還したとき、我々は“氷の中に眠る進化史を見過ごした臆病者”と記録されるぞ」

 星野:「帰還できなければ、記録も残らない。感染死で全員が火星に埋もれる。それでも続けるのか?」

 野間通信士:「……両方とも正しい。でも、もし“生命”だったなら、これは人類だけのものじゃない。火星に属する存在だ」


 その言葉にAI〈Ω〉が割り込む。

 《補足:国際宇宙法第VII条、および惑星保護ガイドラインに基づけば、未知の生命を“蘇生”する行為は条約違反の可能性が高い。地球への帰還時に告発されるリスクを考慮すべき》


 藤堂は机を叩いた。

 「条約? 条約は想定された範囲でしか意味を持たない! ここにあるのは、条約が想定しなかった“古代火星生物”だ」


 星野は静かに言った。

 「条約を無視した結果、次に死ぬのはあなたかもしれない」


 葛城がようやく口を開いた。

 「……結論を急ぐな。続行の是非は、この基地だけで決める問題ではない」


 彼は端末を操作し、地球への暗号通信を準備した。だが、その文面には「発見」とは書かれず、「構造的反応の観測」とだけ記された。


 AI〈Ω〉が淡々と補足する。

 《送信文は“中立的記述”として受理可能。ただし、地球管制局からの即時停止命令が下る確率は72%》


 藤堂は唇を噛み、星野は安堵の息を漏らした。野間は画面を見つめ、指を止めていた。


 ラボに残された静寂の中、誰もが理解していた。

 ——これは科学の探求ではあるが、同時に生と死の境界を踏み越える行為でもある。


 AI〈Ω〉の冷徹な声が最後に響いた。

 《提示:継続と停止、いずれも重大な帰結を伴う。選択は人間の領域であり、私は決定を下さない》


 その言葉は、冷たくも正確な事実だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ