第103章 倫理の葛藤
培養槽が凍結ストレージに収められた後、隔離ラボの空気はさらに重く沈んでいた。数時間ごとに繰り返されるリズミカルな膨潤、酸素濃度の微増、体節の波のような膨張。すべてを「物理現象」と片付けるには難しすぎた。
だが同時に、先週の死の記憶は生々しく残っている。若い技術員が咳を始めてから肺が白濁するまで、わずか三日。抗生剤も抗ウイルス薬も効果はなく、死因は「未知の外来因子」としか記録できなかった。
葛城副艦長は重い声で切り出した。
「これ以上の実験は、基地全体を危険に晒すかもしれん。だが、やめれば全てのデータは“仮説止まり”になる」
藤堂科学主任はすぐに反論した。
「だからこそ続けるべきだ! ここにあるのは、地球の進化史を覆す存在だ。ディッキンソニアの体節運動、チャルニオディスクスの光応答。もし再生が可能なら、“動物”と“植物”の分岐を再検証できる」
星野医務官は険しい表情で立ち上がった。
「再生? 言葉を慎め。これは生命かどうかも分からない“危険物”だ。あなたは仲間の死を忘れたのか」
沈黙を破ったのは、壁際のスピーカーから響いた無機質な声だった。
《発言許可:研究支援AI〈Ω〉》
AI〈Ω〉は、実験ログとリスク解析をリアルタイムで管理していた。冷徹な声がラボを満たす。
《統計更新:培養槽内からの酸素発生は、無機的分解で説明できる確率42%、生体由来である確率58%。感染リスク評価レベルは前回死亡事例を基準にカテゴリーX。作業継続は“重大リスクを伴う”》
藤堂が苛立ちを隠さずに声を荒げる。
「お前は数値でしか語れない。だが、科学の前進はリスクを受け入れることで成し遂げられてきた!」
AIは即座に応答した。
《反論:リスク受容は集団の同意を前提とすべき。死亡者を出した直後の小規模クルーは、その条件を満たしていない》
星野はその言葉に頷いた。
「正しい。私たちは仲間を守る義務がある」
だが葛城は腕を組んだまま黙っていた。彼の視線は端末に並ぶデータ波形に注がれている。
議論は続いた。
藤堂:「このまま封印すれば、人類史上最大の発見を見逃す。地球に帰還したとき、我々は“氷の中に眠る進化史を見過ごした臆病者”と記録されるぞ」
星野:「帰還できなければ、記録も残らない。感染死で全員が火星に埋もれる。それでも続けるのか?」
野間通信士:「……両方とも正しい。でも、もし“生命”だったなら、これは人類だけのものじゃない。火星に属する存在だ」
その言葉にAI〈Ω〉が割り込む。
《補足:国際宇宙法第VII条、および惑星保護ガイドラインに基づけば、未知の生命を“蘇生”する行為は条約違反の可能性が高い。地球への帰還時に告発されるリスクを考慮すべき》
藤堂は机を叩いた。
「条約? 条約は想定された範囲でしか意味を持たない! ここにあるのは、条約が想定しなかった“古代火星生物”だ」
星野は静かに言った。
「条約を無視した結果、次に死ぬのはあなたかもしれない」
葛城がようやく口を開いた。
「……結論を急ぐな。続行の是非は、この基地だけで決める問題ではない」
彼は端末を操作し、地球への暗号通信を準備した。だが、その文面には「発見」とは書かれず、「構造的反応の観測」とだけ記された。
AI〈Ω〉が淡々と補足する。
《送信文は“中立的記述”として受理可能。ただし、地球管制局からの即時停止命令が下る確率は72%》
藤堂は唇を噛み、星野は安堵の息を漏らした。野間は画面を見つめ、指を止めていた。
ラボに残された静寂の中、誰もが理解していた。
——これは科学の探求ではあるが、同時に生と死の境界を踏み越える行為でもある。
AI〈Ω〉の冷徹な声が最後に響いた。
《提示:継続と停止、いずれも重大な帰結を伴う。選択は人間の領域であり、私は決定を下さない》
その言葉は、冷たくも正確な事実だった。