第102章 人工培養槽
代謝の兆候が確認された翌日、隔離ラボではさらに踏み込んだ実験が計画された。標本を直接刺激するのではなく、マイクロフルイディクス培養槽に封じ込めて環境を制御し、どのような反応を示すかを観察する。
「装置の名称は《Mars Bio-Containment Chip-02》。内部は高さ500マイクロメートルの微小流路で、四層の流体チャンバーを持つ」
藤堂科学主任は操作パネルを前に淡々と説明した。
「各チャンバーの温度・pH・溶存ガスを独立制御可能。微生物試料用に開発されたが、今回は大型の組織片を収める」
カートリッジのスロットに、氷解したチャルニオディスクスの繊維片とディッキンソニアの体節片が慎重に収められた。直接の接触はなく、透明なポリマーチップを通じて顕微鏡観察と蛍光検出が可能になっている。
星野医務官は記録用端末に手を置いたまま、低い声で釘を刺した。
「忘れるな。これは感染事故で死者を出した氷床と同じ起源だ。装置を完全隔離し、外部大気と一切交わらないことを常に確認しろ」
野間通信士は無言でうなずき、カメラの映像を地球送信用に暗号化する。すでに地球の管制局は実験を逐一監視しており、一歩間違えば「即時中止」の指令が飛んでくる。
最初に流されたのは、滅菌した火星氷融解水だった。チャンバー内で組織片がわずかに膨潤し、繊維束の間に透明な液が染み込んでいく。顕微鏡下で観察すると、枝分かれの節点が一瞬ふくらみ、再び収縮した。
「膨張率2パーセント……物理的な水和反応だろう」オペレーターが読み上げる。
次に、対照実験として地球由来の培地を導入した。アミノ酸と糖分を最低限含み、pHは中性に調整されている。チャンバー内の圧力が安定すると、ディッキンソニア片の体節に沿って淡い蛍光が走った。ATP類似分子を検出する蛍光プローブが反応したのだ。
「……ここでもリン酸基の残存が確認される」藤堂がつぶやいた。
「死骸の残滓か、それとも……」
星野は画面を見つめながら冷たく言った。
「“再生”と呼ぶには早すぎる。分解と再水和の境界を我々はまだ理解していない」
次のステップでは、環境ガスの比率を制御した。二酸化炭素濃度を地球大気の10倍に高め、弱い赤色光を照射する。これは火星表層に近い環境を模倣した条件だった。
その瞬間、チャルニオディスクス片の繊維網が波打つように膨張した。枝先の節点が一斉に光を反射し、規則的な周期を刻んだ。
「周期は約40秒。前回の酸素変動と一致している」野間が声を震わせる。
さらに質量分析器が微量の酸素発生を検出した。増加量はわずか0.004パーセントだが、波形は確かに膨潤のリズムと同調していた。
藤堂は息を呑んだ。
「光応答だ……! 光合成か、それに類するプロセスが残っている」
星野は即座に切り返す。
「過酸化塩の分解でも酸素は出る。反応を“生命”と決めつけるな」
しかし誰もが、周期性の一致を偶然と片づけることにためらいを覚えていた。
さらに実験は進む。チャンバーの一つにごく微量の熱刺激を与えると、ディッキンソニア片の体節が順番に膨張し、あたかも波が走るようにリブが動いた。
数値上は熱伝導による膨張の遅延と説明できる。だが、動きはあまりに滑らかで、方向性を持っていた。
「セグメントごとに時間差がある。まるで神経伝導のようだ」藤堂が興奮気味に声を上げる。
星野はその言葉を鋭く遮った。
「それは“見たいものを見ている”だけだ。物理現象と生物現象を混同するな」
だが、葛城副艦長の視線は冷静だった。
「重要なのは、これが再現可能な反応かどうかだ。もう一度、条件を切り替えろ」
再試行。結果は同じだった。体節が順に膨張し、波のような動きを見せる。顕微鏡映像の前で誰も言葉を発せなかった。
実験終了時、培養槽は即座に液体窒素で凍結され、チャンバーごと二重封鎖のストレージへ収められた。外部への拡散を完全に遮断するためだ。
星野は報告文に「刺激応答に見える現象」と慎重な表現で記録を残した。
藤堂はその横で、モニタに残るリズム波形を見つめ続けていた。
野間は端末に入力した最後の一文を消すかどうか迷った。
——「これは死骸の反応ではなく、火星に眠る“未完の生命”だ」
指は止まり、文は記録されなかった。
ラボに残ったのは、周期的に波打つリズムの残像だけだった。