第101章 代謝の兆候
分子痕跡の解析から二日後、隔離ラボでは次の段階の実験が始まった。目的は、標本に「代謝の兆候」が残っているかどうかを確かめること。既に一人が未知の微生物感染で命を落としている以上、すべては遠隔操作と封鎖システムを介して行われた。
「接触電極を配置する。観察はナノボルト単位まで記録」
藤堂科学主任がコンソールに指示を入力した。
微細な電極が氷解したディッキンソニア片の体節部分に接触する。数値がスクリーンに走り、やがて微弱な電位差が現れた。
「……マイナス0.12ミリボルト。揺らぎは数秒周期」
野間通信士が読み上げる。
星野医務官はすぐに反応した。
「電解質の拡散によるノイズだ。死骸が溶けるときにも起こる」
しかし藤堂は首を振った。
「周期性がある。熱膨張では説明できない」
議論は平行線のまま、別の標本へ移った。チャルニオディスクスの繊維束に電極を当てると、枝分かれの節ごとに異なる微弱電位が観測された。まるで管の内部をイオンが流れているかのようなパターンだった。
「見ろ、節点ごとに電位がシフトしている。導電率に勾配がある」藤堂が声を上げる。
星野は即座に遮った。
「氷解時に塩類が偏在すれば同じ現象が出る。……“代謝”と呼ぶには根拠が薄すぎる」
葛城副艦長は沈黙を守りながらも、全データの記録を確認していた。
次のステップはガス交換の検出だった。ステージ上のレンゲア片を密閉チャンバーに収め、内側の気体を質量分析器で常時モニターする。ベースラインは窒素と二酸化炭素がほとんどを占める無機的組成に調整されている。
観測開始から数分後、わずかな酸素濃度の増加が検出された。
「O₂濃度、0.002パーセント上昇」オペレーターが報告する。
藤堂は息を呑んだ。
「酸化鉄や過塩素酸塩の分解じゃ説明できない速度だ。内部で酸素が生成されている可能性がある」
星野は即座に反論した。
「可能性、可能性……。火星土壌には過酸化物が含まれている。氷解水が触れれば酸素は出る。生命の証拠にはならない」
だが、次の瞬間にはさらに微妙な変化が起きた。酸素増加のタイミングが、チャルニオディスクスの繊維網の「膨潤と収縮」と同調していたのだ。周期はおよそ三十秒。映像とガス濃度の波形を重ね合わせると、二つのリズムは見事に一致した。
野間が呟く。
「……呼吸みたいだ」
誰も答えなかった。答えてしまえば、それは「生命の兆候」を認めることになるからだ。
続いてATP類似分子の検出が試みられた。極微量の蛍光プローブを滴下すると、ディッキンソニア片の体節に沿って微弱な蛍光が走った。まるで体表のリブに沿ってエネルギーの痕跡が並んでいるように見える。
藤堂は興奮を隠せずに言った。
「リン酸基の残存がある! エネルギー通貨がまだ痕跡を残しているんだ」
星野は顕微鏡像から目を離さず、低い声で返した。
「痕跡だ。再生可能性の証拠ではない。あのときの仲間だって、最初は“ただの痕跡”から感染した」
室内に再び沈黙が広がった。死者の存在は、この実験のすべてに影を落としていた。
その時、モニタに異常が現れた。レンゲア片の枝分かれ部分が突然、局所的に光を反射したのだ。蛍光ではない。顕微鏡下で観察すると、微細な気泡が組織内部を移動し、節点ごとに膨張と収縮を繰り返していた。
「……これは拡散じゃない。方向性がある」藤堂が囁いた。
「まるで……液体が流れているようだ」
数値もそれを裏付けていた。微小流体センサーが、節点間でナノリットル単位の圧力差を記録していたのだ。
星野は眉をひそめた。
「信じ難い……だが、仮にそれが“流れ”だとしても、代謝かどうかは分からない。化学反応の残響かもしれない」
葛城副艦長はしばらく黙ってデータを見つめ、それから短く告げた。
「報告には“周期性のある電位差と気体変動を観測”と記せ。断定は避けろ。ただし記録は続行だ」
ラボを満たすのは、機械の唸りと心拍のような数値の波形。誰も口にしないが、全員が理解していた。
いま観測しているのは、“生きているか死んでいるかを区別できない存在”だということを。