第100章 分子痕跡
解凍滴から回収されたサンプルは、二重隔壁の奥にある分子分析室へ移送された。作業は遠隔操作アームによって行われ、人員は隔壁越しに監視する。未知微生物による死亡事故がすでに発生している以上、直接接触は一切禁じられていた。
分析の最初のステップは、ガスクロマトグラフィー質量分析 (GC-MS) だった。真空中でサンプルを加熱し、揮発性の分子を分離してから質量スペクトルを取得する。基準ピークとの照合をAIが行い、地球の既知分子との相同性が色分けされて表示された。
最初に現れたピークは、グリシン、アラニンなどの単純アミノ酸を示唆する質量数だった。続いて、より複雑な炭素数を持つ脂質様化合物の信号が検出された。
藤堂科学主任が身を乗り出した。
「……ここを見ろ。C₂₇からC₂₉範囲のステロイド骨格だ。ディッキンソニアの化石で報告された“動物性脂質”と一致する」
かつて2018年、オーストラリアの化石から同様の痕跡が見つかり、ディッキンソニアが「動物」と断定される決め手となった。その記憶が全員の脳裏に蘇る。だが、いまモニタに映る信号は地球ではなく、火星の氷からのものだった。
星野医務官が冷静に釘を刺す。
「一致率はまだ70%台。異性体の可能性もある。結論を急ぐな。……ただし“生物由来”である可能性は否定できない」
次に液体クロマトグラフィー (HPLC) による高分子断片の分離が行われた。紫外線吸収スペクトルは、多糖類やリグニン様の構造を示唆するピークを描いた。チャルニオディスクス片から抽出した分画は、セルロースに近い多糖構造を持つ可能性を示した。
「動物と植物の境界を越えた“第三の代謝”があったのかもしれん」藤堂が呟く。
「ディッキンソニアの脂質と、チャルニオディスクスの多糖。両方が同じ環境に眠っていた」
野間通信士が記録端末を叩く手を止め、ためらいがちに言葉を挟んだ。
「つまり……火星には“動物的な系統”と“植物的な系統”が同居していた可能性がある?」
星野はすぐに否定した。
「それは飛躍だ。検出されているのは残骸にすぎない。生態系の存在を証明するには、再現性のある代謝反応を示す必要がある」
議論の最中、AI解析システムが新たな結果を提示した。サンプルの一部で、炭素同位体比 δ¹³Cが地球生物の典型値よりも0.8‰ずれていた。これは火星特有の同位体循環、あるいは独自の代謝経路を反映している可能性が高い。
藤堂は眉をひそめた。
「同位体比の偏差……これは単なる地質的保存の結果ではない。代謝過程で分別が起きた痕跡だ」
星野は険しい表情を崩さない。
「それが“生きた代謝”なのか、“死骸の残留効果”なのかを切り分けなければならない。……一歩間違えば、また仲間を失う」
最後に蛍光プローブを添加した観察が行われた。DNAやRNA特異的な蛍光は一切反応を示さなかった。だが、非特異的にタンパク残基に結合する蛍光色素が繊維網の一部を淡く光らせた。
「核酸は残っていない。だが、アミノ酸やペプチド断片はまだ存在する」藤堂が言った。
「これは“生物の死骸”の域を出ない。だが——“死骸”がこれだけ保存されているなら、まだ眠っている個体があっても不思議じゃない」
観測室に再び沈黙が落ちた。
野間は、死んだ仲間の名前を胸の内で呼んだ。彼の肺を蝕んだ微生物もまた、同じ氷床から出たものだった。分子痕跡と感染源、その境界線はあまりにも曖昧だった。
葛城副艦長が低い声で締めくくった。
「記録文にはこう記せ。“第四掘削点にて、アミノ酸・脂質・多糖の分子断片を検出。ディッキンソニア由来分子との相同性あり。ただし生存性は確認されず”」
星野は小さく頷いた。だがその目は、モニタに光る淡い蛍光を捉え続けていた。
死んでいるのか、生きているのか。いまはまだ、誰にも断定できなかった。