第99章 形態の復元
氷解が進み、標本の輪郭はかつてない鮮明さを帯びていた。真空恒温ステージの中央で、チャルニオディスクスの円盤状基部が完全に露出し、放射状に伸びる繊維束が幾重にも分岐して広がっていた。顕微鏡の拡大像は、地球で知られる「押し花状の化石」とはまったく異なる。ここにあるのは二次元の印象ではなく、立体的な生命の痕跡だった。
「分岐角度……およそ137度。黄金角に近似」
藤堂科学主任が声を低くした。
「しかも繊維の太さが均一だ。偶然の成長痕とは思えない。明確な設計原理に従っている」
彼は解析装置にデータを流し込み、分岐のパターンを三次元再構築した。モニタに浮かび上がった映像は、まるで複雑な葉脈の網目だった。フィボナッチ数列を思わせる枝分かれの連続、均整の取れた角度。自然界にもフラクタル構造は数多く存在する。だが、ここまで徹底して秩序だった形は、むしろ人工物のような精緻さだった。
「自然は無秩序の中に秩序を生む。だが、これは“秩序のための秩序”だ」
藤堂は吐き出すように言った。
隣の氷片からは、レンゲア (Rangea) を思わせる葉状のフラクタル構造が立体的に立ち上がった。枝分かれは三方向に均等に繰り返され、まるで雪の結晶を巨大化したような幾何学的な姿を見せている。レンゲアは地球のエディアカラ紀で発見されたが、化石は常に押し潰されて二次元的だった。ここで目の当たりにしているのは、その三次元の原型だった。
「信じられん……」野間通信士は端末を握りしめながら呟いた。
「地球では二次元の影しか見えなかった。だが火星は、完全な姿を凍結保存していた」
藤堂は頷きつつも、視線を逸らさなかった。
「まるで“意図的に”冷凍保存されたようだ。自然の偶然にしては、あまりに完全すぎる」
星野医務官がすぐに反論する。
「言葉に気をつけろ。意図や保存という概念は推測にすぎない。我々が知るのは、氷中に構造体が存在する事実だけだ」
彼女の声は冷静だったが、緊張の影を帯びていた。先週の感染死は彼女の警告が無視された結果だった。二度と同じ過ちは許されない。
解凍滴を回収し、蛍光染色を施すと、繊維束の接合部に微細な結節が浮かび上がった。それは単なる枝の分岐ではなく、**管同士を繋ぐ“接合点”**だった。そこを起点に枝が広がり、全体として流体を巡らせるネットワークを形成していることが明らかになった。
「ただの模様じゃない」藤堂が確信を込めて言った。
「これは管網だ。水、あるいは栄養を運んでいたに違いない」
野間が息を呑んだ。
「それは……つまり“体内循環”があったということか?」
「そう言い切るのは危険だ」星野がすかさず遮った。
「だが、この規則性は単なる物理的沈殿では説明できない。……機能を持っていた可能性が高い」
さらに別の氷片からは、ディッキンソニアの体節が明瞭に現れた。楕円形の体表に走るリブ構造は、ひとつひとつの区画が均等に分かれ、あたかも呼吸運動を行うかのように配置されていた。解析ソフトは、体節の比率が成長に伴って拡大する様子を示し、「成長段階の痕跡」を強く示唆していた。
「動物の最古の祖先……その成長プロセスまで保存されているのか」藤堂は声を震わせた。
「これは進化の起点を、火星で直接見ることに等しい」
星野は顕微鏡から目を離さずに冷たく言った。
「そして感染源の温床でもある。忘れるな」
葛城副艦長は静かに全員を見渡した。
「科学とリスクは常に表裏一体だ。ここで止めれば仲間の死は無駄になる。だが、踏み越えれば基地全体が危うい。選択は一つだ。二重封鎖を維持しつつ、観察を続行する」
モニタに映し出された三次元像は、圧倒的な秩序を示していた。葉脈のようなチャルニオディスクス、雪の結晶を思わせるレンゲア、動物の起点を暗示するディッキンソニア。それらはすべて、数億年の沈黙を破り、今ここで姿を取り戻しつつあった。
野間は記録端末に指を走らせながら、ふと手を止めた。
「……これは報告書じゃ足りない。人類の進化史を火星が握っているんだ」
その言葉に、誰も応じなかった。ただ機械の低い唸りが響き続け、氷の中の古代生物は、なおも黙して存在を誇示していた。