第98章 氷解プロセス
隔離ラボの空気は、消毒薬の匂いと緊張で張り詰めていた。氷塊の内部で眠るチャルニオディスクスとディッキンソニアの輪郭を前に、隊員たちは誰一人声を上げなかった。先週の死者のことが、全員の頭をよぎっていたからだ。未知の微生物に肺を蝕まれ、わずか三日で呼吸不全に陥った若い技術員。その死は「ただの研究」では済まされない事実を突き付けていた。
「——準備完了。解凍プロセスに入る」
葛城副艦長の声が冷たく響いた。
氷塊は真空恒温ステージに設置され、外部からの流体循環系で制御された。解凍は一気に行わない。表層を-80℃から-20℃へ、十時間かけて緩慢に温度を上げる。氷に閉じ込められた構造体を、崩壊させずに「再水和」するためだ。
星野医務官が、警告を繰り返した。
「解凍水はすべて回収。大気接触は禁止。コンタミが起きれば即時隔離。忘れるな、ここは研究室であると同時に隔離病棟だ」
加温が始まると、氷の奥から気泡が生まれ、ゆっくりと表層へ上がってきた。計測値はCO₂が優勢だが、微量のメタンも混じる。氷の中で眠っていた分子が、数億年ぶりに解放される瞬間だった。
藤堂科学主任が画面を凝視した。
「ガス比率……地球の嫌気性微生物群落と似ている。だが同時に異質だ。炭素同位体比がわずかにシフトしている」
野間通信士が入力端末に手を走らせながら、息を潜めて呟いた。
「……つまり、火星独自の代謝経路を持つ可能性がある?」
「推測で決めるな」星野の声は鋭かった。
彼女は呼吸器越しに冷たい視線を送る。「未知の感染で一人を失った。それを忘れたのか」
温度が-10℃に達したところで、氷塊の中心部から黒い樹枝状の影が立体的に浮かび上がった。チャルニオディスクスの繊維束が、氷の透明度を増すごとに網の目を広げていく。その隣では、楕円形の体節模様——ディッキンソニアの特徴的なリブ構造——が浮かび上がっていた。
藤堂が声を震わせた。
「これだ……ディッキンソニアの体節が三次元で残っている! 地球の砂岩では、表面の陰影しか見えなかったのに」
顕微鏡がズームインし、セグメントごとの厚みや内部の微細な縞模様が描き出された。繰り返し配置された肋骨状の構造は、まるで呼吸運動を暗示しているかのようだ。
「だが、呼吸をするかどうかは問題じゃない」星野は低く告げる。
「重要なのは、この構造にまだ残留分子が潜んでいるかだ。感染源は目に見えない」
加温は慎重に進められた。0℃を越えると、氷片から透明な滴が落ち始めた。回収ポートは即座に作動し、滴を負圧下の試料容器に吸い込む。警報ランプが淡く点滅し、処理系統がすべて閉鎖されていることを示していた。
数分後、試料滴を蛍光染色した映像がモニタに現れた。顕微鏡下でわずかに光を帯びた粒子が漂っている。形は球状で直径は2〜3マイクロメートル。
「細胞サイズだな」藤堂が声を潜める。
星野は即座に言い放った。
「生きている保証はない。死骸の断片かもしれない。……だが、同じことを一週間前にも言った。結果はどうだった?」
ラボの空気が凍りついた。誰もが、死んだ仲間を思い出した。
「二重封鎖を維持。映像観察のみ。絶対に直接培養には移らない」
葛城の声が冷たく響いた。
だが、その直後だった。
ディッキンソニア片の体節の隙間から、小さな液状の動きが走った。顕微鏡映像に映るそれは、わずかだが脈動しているように見えた。
「……動いたか?」野間の声が震えた。
藤堂はすぐに解析装置を確認した。
「いや、まだ判断できん。熱膨張か、氷解による物理的収縮かもしれない」
しかし、全員が知っていた。**もしこれが自発的な動きなら、氷の中で眠っていたのは単なる遺骸ではなく、再生可能な“何か”**だということを。
観察を続けるか、停止するか。全員の視線が葛城に集まった。副艦長の表情は固く、言葉は短かった。
「続行する。だが、記録文には“膨潤現象”とだけ記す。推測は一切書くな」
再び機械の音が響き始めた。氷は静かに溶け続け、未知の影が少しずつ輪郭を取り戻していく。
その様子はまるで、数億年の眠りから古代の呼吸が蘇ろうとしているかのようだった。