第97章 隔離実験室
火星基地の居住区から隔てられた隔離バイオラボは、重苦しい静寂に包まれていた。三重の隔壁、負圧システム、HEPAフィルタ。通常ならば科学的探究心を刺激する空間が、いまは死の影を帯びている。先週、未知の微生物感染で一人の若い技術員が命を落とした。遺体は解剖すら許されず、密閉棺のまま火星砂漠の彼方に葬られた。その事実は全員の心に影を落とし、いま目の前にある氷のコアを「学問的標本」ではなく「潜在的な脅威」として映し出していた。
二重コンテナの蓋が開くと、冷却ガスの白い靄が床を這った。中には、火星氷床から切り出された透明な塊。赤い塵を纏いながら、その奥にはチャルニオディスクス (Charniodiscus) に酷似した放射状の影が眠っていた。円盤状の基部から幾筋もの繊維が放射し、幾重にも枝分かれしている。立体的な保存状態は、地球の砂岩に残った「押し花」とは比べものにならなかった。
葛城副艦長は短く命じた。
「隔離実験開始。全員、P4レベル装備を再確認」
星野医務官は一人ずつ防護スーツのシールを点検した。二重手袋の密着、背部ユニットの呼吸圧、フェイスシールドの気密。彼女の視線は冷徹そのものだった。感染による一名の死を看取ったのは彼女自身であり、その記憶が警鐘となって全員の胸に突き刺さっていた。
顕微鏡下で確認された繊維の間には、楕円形の規則模様も潜んでいた。ディッキンソニア (Dickinsonia) に酷似した体節構造。2018年にオーストラリアで動物性ステロイドを含む痕跡が検出され、「最古の動物」とされた存在である。地球ではすでに絶滅したはずの形が、火星の氷に立体のまま閉じ込められていた。
藤堂科学主任が息を呑む。
「……チャルニオディスクスとディッキンソニアが同じ層に並んでいる。地球でも稀なのに……」
野間通信士が、記録端末を握る手を震わせながら呟いた。
「もし地球と火星で同じ生物系統が存在したとすれば……」
だがその言葉を遮るように、星野が低く言った。
「忘れるな。先週、感染で仲間を失ったばかりだ。あのとき確認された微生物は、既知のDNAプローブに一切反応を示さなかった。正体不明のまま、たった数日で肺を破壊した。——つまり、ここにあるのは『生命の遺産』であると同時に、『死の種子』でもある」
室内の空気が凍りついた。誰もが、あの死を思い出していた。隔離棺を運び出すときの重さ、無線越しに聞いた最後の呼吸。
葛城は淡々と続ける。
「それでも我々は前に進む。地球に送る報告文には“類似”の語以上は用いるな。決して『再生』や『生存』と書くな。すべては仮説に留める」
顕微鏡像には、レンゲア (Rangea) を思わせるフラクタル状の枝分かれも映っていた。黄金角度に近い規則性を持ち、自然の偶然か、数理的必然かを思わせる精緻さだった。
藤堂はその画像を見つめながら、かすかに震える声を漏らした。
「……これは生命の秩序そのものだ。だが、その秩序が我々を殺すこともある」
星野は即座に付け加える。
「だからこそ、二重封鎖を絶対に破ってはならない」
実験室には機械音だけが残った。氷の奥のチャルニオディスクスも、ディッキンソニアも、沈黙を守ったまま横たわっている。しかしその姿は雄弁だった。ここに眠るのは、進化史の「別の枝」であり、同時に未知の脅威の温床でもある。
——火星の氷床は、保存庫であると同時に、棺でもあった。