第92章 素粒子は本当に正面衝突しているのか(改稿)
西園寺葵は、検出器の中央ホールを歩きながら何度も立ち止まった。頭の中には先ほどの説明――足跡や光や痕跡から粒子を“名指し”するプロセス――がまだ渦巻いていた。しかし同時に、もっと根本的な疑問がふつふつと湧いてきていた。
「……ねえ」
葵は振り返り、研究者たちに声をかけた。
「そもそも本当に、粒子同士って正面からぶつかっているんですか? だって、あんなに小さいものを、どうやって狙い撃ちできるんです?」
その問いに、久我隼人は思わず笑い声を漏らした。
「さすがですね。みんな一度は抱く疑問ですが、核心を突いています」
セレステ・アンダーソンが床にチョークで小さな円を描いた。
「粒子は一本の線ではなく、数千億個が“ビームバンチ”という群れになって走っています。バンチの長さは数センチ、太さはわずか数十マイクロメートル。目に見えないほど細い糸のような束が、秒速数十万キロでリングを駆けているんです」
葵は思わずノートに大きな字で「ビーム=粒子の群れ」と書いた。
「そんなにたくさん……。じゃあ、その群れ同士を正面からぶつけるんですか?」
「そうです。ただし“一粒一粒が必ず衝突する”わけではない」
久我が補足する。
「実際には、ほとんどの粒子はすれ違ってしまう。だけど、ほんの一部が正面衝突する。その確率を高めるために、超伝導磁石でビームを極限まで絞り込み、数十マイクロメートルの精度で交差させているんです」
エリザ・クラインが冷静に言葉を継いだ。
「つまり、衝突は奇跡的な出会いのようなもの。でも、その奇跡を毎秒何百万回も記録するのが加速器です。大量の群れを用意して、統計的に必然を生み出しているのです」
葵はノートに「奇跡 × 統計=実験」と殴り書きし、顔を上げた。
「じゃあ、“正面衝突”っていうのは、数兆分の一の確率で起きる出会いを指してるんですね」
「その通り」
セレステが微笑んだ。
「そしてその出会いの瞬間に、新しい粒子が生まれたり、既知の理論が試されたりする。だからこそ一回一回が貴重なんです」
レベッカ・ハワードがタブレットを掲げ、イベントシミュレーションを見せる。二本の細い光の束が交差し、そこから色とりどりの線が飛び散っていく。
「この映像は、ほんの一秒間に起きる衝突の一部。数千億対数千億が交差しても、ぶつかるのはわずか。でも、そのわずかな出会いから宇宙の秘密がこぼれ落ちるんです」
葵は画面を食い入るように見つめ、やがて小さく笑った。
「数千億分の一の確率で出会う二人が、世界の真実を暴いてくれる……。なんだか小説の運命的な恋愛みたいですね」
研究者たちは顔を見合わせ、声を立てて笑った。
「ええ、確かに」と久我は頷いた。「でも、私たちにとってはその一瞬の“出会い”こそが全てなんです」
葵はノートを閉じ、胸に抱きしめた。
「正面衝突って、ただのキャッチコピーじゃなくて、統計と技術と偶然が重なった“宇宙規模の必然”だったんですね」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。加速器の低いうなりが、彼らの耳に深く染みこんでいく。
そこでは今も、数えきれないほどの粒子がすれ違い、その中のごく一部が奇跡のようにぶつかっていた。