第89章 地下の環
葵が最初に案内されたのは、地上のエントランスから長いエレベーターを降りた先に広がる巨大な通路だった。壁には配管が走り、かすかな冷却水の音が響く。空気はひんやりとして、どこか地下水脈の奥に迷い込んだような錯覚を与える。だがその中心には、科学のために組み上げられた圧倒的な人工物が存在していた。
「ようこそ、リングの中へ」
山崎真一が、通路の奥へ向かって手を広げた。彼の声は落ち着いていたが、どこか誇らしげだった。
葵は足を踏み出し、視線を左右に巡らせる。延々と続く青い筒。冷却用のジャケットを纏った超伝導磁石が、数メートルごとに連なり、まるで地下に眠る龍の背骨のように曲線を描いていた。
「これが粒子加速器の本体、リングです。全周は27キロ。都市の外周道路ほどの大きさですね」
山崎は足元の金属グレーチングを軽く踏み、音を響かせながら続けた。
「ここを周回するのが、我々の“観測対象”ではなく、“観測のための道具”――陽子ビームです」
葵は眉をひそめた。
「観測対象ではなく、道具……?」
隣で歩いていたリュック・モローが補足する。
「ビームそのものが目的ではないんだ。高速でぶつけて、そこから何が生まれるかを見る。だからこのリングは、宇宙を解き明かすための顕微鏡。顕微鏡のレンズに相当する部分が、この超伝導磁石群なんだ」
葵は磁石の表面を見上げる。霜のような白い模様が所々に浮かんでいる。
「冷たいんですね……」
鶴見真理が答えた。
「ええ。内部は液体ヘリウムで冷却されていて、温度は絶対零度に近い。マイナス271度、摂氏でいうと約4ケルビン。この極低温で初めて超伝導状態になり、強力かつ安定した磁場を維持できる」
「なぜそんなに強い磁場が必要なんですか?」と葵。
鶴見は少し歩を緩め、床に円を描くように指でなぞった。
「陽子は電荷を持っていますから、磁場で曲げることができる。リングを27キロにわたって曲げ続けるためには、数テスラ級の磁場が必要なんです。通常の電磁石では到底耐えられません。だからこそ超伝導が必須なんですよ」
葵は思わず呟いた。
「都市を一周する道を、わずか数ミリの粒子が走る……。そのために宇宙の最低温度に近づけるなんて」
曲がり角を抜けると、別のセクションにたどり着いた。ここには巨大な金属タンクが並び、そこから光ファイバーやケーブルが束になって伸びている。
「これはRF空洞です」
久我慎也が説明に入る。彼は工学的な細部に強い。
「ラジオ周波数の電場で粒子を押し出す“加速器の心臓”にあたります。ビームはここを通過するたびに、少しずつエネルギーをもらう。子どもがブランコを押してもらうみたいにね」
「一度でなく、何度も繰り返すんですか?」と葵。
久我はうなずいた。
「はい。1周での加速はわずかですが、何十万周も回れば光速近くまで到達します。だからリング全体は、巨大な“推進装置の回廊”なんです」
葵はその仕組みを頭に描こうとした。目には見えない小さな粒子が、この広大な地下環を回りながら、何度も背中を押され、ついには光に並ぶ速さにまで至る。想像するだけで目眩がした。
制御室に近いエリアに入ると、ガラス越しに巨大な円筒が見えた。
「ここが衝突点の一つです」
セレステ・カルヴァーリョが指差す。その声には、どこか天文学者らしい敬意がこもっていた。
「ここで二本のビームが逆方向から来て、正面衝突します。内部には検出器があって、飛び出す粒子の軌跡を三次元的に記録します」
葵はガラス越しに円筒を見つめる。まるで巨大なカメラのようだ。
「宇宙の始まりを“再現”する装置……」
リュックが頷いた。
「そう。1兆分の1秒の出来事を捉えれば、138億年前の宇宙がどう始まったのか、その片鱗が見える。粒子加速器のリングは、単なる円ではなく、時間を巻き戻す輪でもあるんだ」
葵の胸に、熱いものがこみ上げた。地下に眠るこの青い龍は、ただ粒子を走らせるだけではない。人間が長い時間をかけて積み上げてきた問いを、答えへと導く環なのだ。
取材ノートの余白に、葵は走り書きをした。
「粒子加速器は、地下に埋められた宇宙の縮図。
冷たさと力と、繰り返しの時間が重なり合う環。」
彼女はペンを止め、改めてリングの静かな呼吸を耳で聴こうとした。冷却装置の低い唸りが、大地の下の鼓動のように聞こえた。