第87章 最も近い銀河との距離
夜のラウンジに、静かにプロジェクターの光が灯っていた。壁一面には、星々の海を背景にした壮大な映像――その中央に、ぼんやりと広がる大きな渦が映し出されている。
「これがアンドロメダ銀河です」
セレステ・アンダーソンがリモコンを操作しながら言った。
「私たちの銀河系から最も近い大型銀河。距離はおよそ250万光年。肉眼でも、秋の夜空に小さな雲のように見えるんですよ」
西園寺葵は思わず椅子から身を乗り出した。
「250万光年!? ……近いって言うには、あまりに遠すぎませんか?」
久我隼人が笑みを浮かべた。
「たしかに日常の感覚からすれば途方もない距離ですね。けれど、銀河同士のスケールでは“お隣さん”です。銀河系とアンドロメダ銀河は局所銀河群という仲間に属し、互いに引き寄せ合っている」
葵はノートに「250万光年」と大きく書き込み、赤字で線を引いた。
「そんなに離れていても、引き寄せ合ってるんですか?」
「ええ。重力です」
エリザ・クラインが短く答える。
「実際、アンドロメダ銀河は毎秒およそ110kmの速度でこちらに近づいています。これはハッブルの宇宙膨張に逆らう動きです。およそ40億年後には、二つの銀河は衝突し、合体して一つの巨大楕円銀河になると予想されています」
葵は目を丸くした。
「えっ……衝突!? じゃあ地球はどうなっちゃうんですか?」
久我は両手を広げ、宙に銀河の渦を描くように説明した。
「衝突といっても、星と星が直接ぶつかる可能性は極めて低い。星々の間隔は、太陽系の大きさに対して途方もなく広いからです。実際には、重力が星々の軌道をかき乱し、配置を変えていく。太陽系がどこへ運ばれるかは分からないけれど、宇宙の夜空は劇的に変化するでしょう」
葵はしばし沈黙し、想像を巡らせた。
「夜空に、二つの銀河が重なって輝く……。まるで舞踏会で二人の踊り手が寄り添い、一つの舞いになるみたい」
その比喩に、セレステは小さく頷いた。
「詩的な表現だけれど、科学的にも正しいわ。銀河衝突は宇宙における壮大なダンス。新しい星が生まれ、古い星々は再配置される。混乱の中で、また次の秩序が形づくられるのです」
リュック・ベルモンがノートPCを開き、シミュレーション映像を見せた。銀河が近づき、腕を絡ませ、やがて一つに融合していく。星の群れは大きな楕円形に収束し、周囲には潮汐力で引き伸ばされた星々の尾が輝いていた。
葵は息を呑み、ノートの余白に描き殴るようにスケッチした。
「二つの渦が一つに……。これが40億年後の私たちの銀河の未来なんですね」
「そう。そしてそのときには太陽はすでに赤色巨星になり、地球の生命は存在しないかもしれません」
エリザの言葉は淡々としていたが、重さを含んでいた。
葵はしばらく黙り込み、やがて小さく笑った。
「でも、想像するだけで胸が高鳴ります。私たちがいなくなった後も、宇宙は次の物語を書き続ける。まるで、人間が去った劇場で、舞台の幕が勝手に上がるみたいに」
研究者たちはその言葉に目を合わせ、頷いた。
銀河の衝突は人間の寿命をはるかに超える未来の出来事だ。だが、それを思い描くことは今を生きる彼らにとっても意味がある。
葵はノートを閉じ、ペンを胸に差し込んだ。
「250万光年の距離も、40億年後の衝突も、結局は“今”の私の想像の中で一瞬に収まってしまう。そう思うと……なんだか不思議ですね」
窓の外、夜空にはまだ見えないアンドロメダ銀河が静かに瞬いている。その存在を意識するだけで、銀河の物語が彼女の心の中でひときわ近く感じられた。