第86章 銀河の誕生と太陽系の位置
研究棟のカフェテリアには、深夜の静けさが漂っていた。自販機の柔らかな灯りと、壁際の水槽の青い光だけが、空間をかすかに照らしている。西園寺葵はカップに注いだ紅茶を揺らしながら、窓の外に広がる闇を見つめていた。
「銀河系って、いつできたんでしょうか?」
ぽつりと呟いた声は、近くのテーブルでノートPCを開いていたリュック・ベルモンの耳に届いた。彼は眼鏡を押し上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「およそ130億年前です。宇宙そのものが誕生してから数億年後には、すでに小さな原始銀河が形成されていた。銀河系はそうした小銀河が合体し、成長して現在の姿になったと考えられています」
葵は椅子を回して彼に向き合い、ノートを開いた。
「宇宙の年齢が138億年ってことは……銀河系はかなり古株なんですね」
「そう。もっとも、当時の銀河は今のように整った円盤ではなく、星々がまだ混沌とした集まりにすぎなかった。やがて重力でまとまり、渦巻きの腕を広げ、今の姿になった」
そこへ久我隼人がトレイを持ってやって来た。コーヒーを置きながら口を挟む。
「そしてその中心には、例の超大質量ブラックホールが育っていった。銀河の心臓の鼓動に合わせて、星々の軌道も安定していったわけだ」
葵はペン先を唇に当て、考え込む。
「じゃあ、私たちの太陽系はそのどのあたりで生まれたんですか?」
「太陽系が誕生したのは、今から46億年前」
セレステ・アンダーソンが隣の席に腰を下ろし、静かに答えた。
「つまり、銀河系ができてからずいぶん後のことです。銀河の歴史で言えば“後期の世代”にあたります」
「後期……」葵はその言葉を繰り返した。
「それは、どういう意味があるんですか?」
「重要な意味があります」
セレステは指で机を軽く叩いた。
「初期の宇宙には水素とヘリウムしかほとんど存在しなかった。炭素や酸素、鉄のような重元素は、初代の恒星が核融合と超新星爆発で作り出し、宇宙にばらまいた。だから、太陽系が誕生できたのは“先輩の星たち”が命を燃やし、その遺産を残してくれたおかげなんです」
葵は瞳を大きく見開いた。
「つまり、私たちの体にある鉄や酸素は、ずっと昔の星の死骸……?」
「そう」
久我が穏やかに答える。
「人間は星屑からできている、というのは詩的な表現ではなく、科学的な事実です」
しばし沈黙が流れた。葵は紅茶をひと口すすり、ゆっくりと息を吐いた。
「私たちは銀河の歴史の“晩年の章”で生まれた存在なんですね」
リュックは首を横に振った。
「晩年というより、成熟期です。初期の混沌を抜け、重元素が豊かに蓄えられ、惑星や生命が生まれる条件が整った。太陽系は、その絶妙なタイミングで生まれたのです」
葵はノートに大きな字で書き込んだ。
「銀河系=130億年 太陽系=46億年」
その横に赤字で線を引いた。
「太陽系は“後期の子ども”」
「銀河系のどこにあるのか、気になりませんか?」
セレステが軽く笑って尋ねた。
「もちろん!」
葵は勢いよく顔を上げた。
「太陽系は、銀河の中心から約2万6千光年離れた位置にあります。ちょうど渦巻銀河の腕の一つ、“オリオン腕”と呼ばれる小さな腕の中」
久我が補足する。
「中心に近すぎれば超新星やブラックホールの影響が強すぎる。逆に外れすぎれば重元素が不足して惑星が作れない。太陽系はその中間、まさに“生命が生まれるのにちょうどいい”銀河の居場所を得たんです」
葵はノートの余白に小さな渦巻きを描き、端のあたりに「太陽系」と印をつけた。
「銀河の片隅の、でも奇跡的に居心地のいい場所……。私たちはそこに生まれたんですね」
彼女の声には、不思議な温かさがこもっていた。
カフェテリアの時計が深夜を告げると、誰もが自然に立ち上がった。
葵はノートを閉じ、胸に抱きながら呟いた。
「銀河系の物語の中で、私たちのページはほんの一枚。でも、その一枚がなかったら、この宇宙に“私”という読者は存在しなかった」
研究者たちはその言葉に静かに頷き、窓の外の闇を一緒に見つめた。
そこには、太陽系を抱く銀河の腕が、見えないながらも確かに伸びているのだった。