第83章 衝突の余韻
午前九時。外の世界ではオフィス街がにぎわい始める頃だが、地下の実験ホールは静かな熱気に包まれていた。ビーム強度は徐々に落ち、安定衝突の終盤に差しかかっている。スクリーンの数値はゆっくりと下降曲線を描き、さきほどまで乱舞していたイベント表示も間隔を広げつつあった。
解析室では、レベッカ・シュナイダーが画面に映るグラフを指さした。赤と青のプロットが規則正しい波のように並び、その背後に淡いエラー帯がかかっている。
「ここ、ピークが予定より少し早いわね。けれど誤差範囲内。キャリブレーションの効果が効いてる」
隣に座る久我慎也が椅子を引き寄せ、キーボードを叩いた。
「確かに。データの最初の1時間はルミノシティが高すぎて、背景ノイズも多い。後半になるほど解析がしやすくなる。……このパターン、まるで長距離マラソンのランナーが息を整えて走る様子みたいだ」
レベッカが笑う。
「なるほど。最初は全力疾走、でもすぐに疲れてペースを落とす。ここからが“安定走”ってわけね」
二人のやり取りを、葵は少し離れた席で記録していた。
「何百万分の一秒の現象を、何時間もかけて読み解く」
ノートにそう書き留めながら、彼女は自分の時間感覚が歪んでいくのを感じていた。
たとえば、いま解析しているデータは「10⁻¹²秒」で起きた事象だ。けれど、それを人間が理解するには数日、数週間の積み重ねが必要になる。宇宙の一瞬を、人間は時間をかけて“翻訳”しているのだ。
そこへセレステ・カルヴァーリョが解析室に入ってきた。髪を後ろで束ね、厚い論文ファイルを片手に持っている。
「おはよう、みんな。衝突データ、もう初期解析に回ってる?」
久我が頷いた。
「はい。ジェットの分布は概ねシミュレーション通りです。バックグラウンドは処理済み。これからさらに事象ごとにフィルタをかけます」
セレステはスクリーンに映る散布図をじっと見つめた。無数の点がランダムに散らばっているように見えるが、その中に規則的なパターンが潜んでいる。
「……この作業、天文学に似ているわ」
「天文学?」葵が顔を上げた。
「ええ。夜空を望遠鏡で覗いても、まず見えるのは星の“点”ばかり。でも、その点を統計的に処理すれば、銀河の分布や宇宙の膨張の歴史が見えてくる。
ここで見ている粒子の衝突も同じよ。1回のイベントはほんの小さな光の点。でも何百万、何千万と積み重ねることで、私たちは宇宙誕生の法則を浮かび上がらせる」
葵は静かに頷いた。
「天文学者は夜空の星を、あなたたちは衝突の痕跡を数えている……。どちらも“時間の深層”を掘り起こす仕事なんですね」
セレステは微笑んだ。
「そう。違うのは、天文学者が“遠い過去の光”を受け取るのに対して、私たちは“過去を再現”している点ね。宇宙の始まりに近い状態を、この地下で作り出している」
解析室の奥では、サーバが静かに唸りをあげていた。数千台の計算機が同時に走り、膨大なデータを処理している。スクリーンに現れるグラフやプロットは、その一部を人間の目に翻訳したものにすぎない。
葵は背筋を伸ばし、モニターに並ぶ波形を眺めながら呟いた。
「こんなに時間をかけてでも、結局は一瞬の出来事を読み解いている……。科学って、ものすごく忍耐強い営みですね」
久我が振り返り、少し照れくさそうに笑った。
「そう思うとロマンチックですけど、実際は泥臭い作業の連続ですよ。コードのエラーや、機器の微調整や、データの揺らぎをひとつひとつ潰していく。宇宙の秘密は、意外と“地味な努力”の積み重ねでしか近づけないんです」
レベッカがうなずく。
「でも、それが楽しいのよ。どんなに小さな歪みでも、そこに未知の粒子の影が潜んでいるかもしれない。退屈と発見の境界線を歩くのが、私たちの仕事」
その言葉に、葵は強い共感を覚えた。記者として膨大な資料や数値を追い、地味な調査の先に物語の核心が立ち上がる経験と重なったのだ。
09:30。スクリーンに「ルミノシティ減衰」のアラートが表示された。今日の衝突も、終わりに近づいている。だが解析室の空気は、むしろ落ち着いて充実していた。嵐のようなピークを過ぎたあとは、静かな余韻の中で数字と対話する時間が訪れる。
葵はノートに最後の一文を走らせた。
「宇宙の一瞬を、何時間もかけて人間が読み解く。衝突の余韻の中にこそ、科学者の呼吸がある。」




