第80章 ブラックホールの“停止”は誰の目に?
西園寺葵は、研究施設の一角にある展示室で足を止めた。壁にはブラックホールを描いた巨大なCGが映し出されている。闇の中心に渦を巻き、光さえ飲み込む円。周囲の光はぐにゃりと曲がり、歪んだ鏡のように映っていた。
「ねえ、ブラックホールの表面では時間が止まるって聞いたことがあります」
葵はノートを抱えたまま、映像を指差した。
「もしそこで時計を動かしたら……本当に針は止まってしまうんですか?」
エリザ・クラインが背後から現れ、冷静な声で答えた。
「観測する立場によります。外から見れば、事象の地平面に近づく物体の時間はどんどん遅くなる。無限に引き伸ばされ、まるで止まったように見える」
「じゃあ、そこにいる本人は?」
葵は食い下がるように問い返した。
セレステ・アンダーソンが代わって説明した。
「本人にとっては、何も異常はない。自分の時計は普通に刻み続ける。ただし、やがて脱出できない領域に入る。だから“止まって見える”のは外から眺めている人にとっての現象なのです」
葵はしばらく黙り込み、映像の暗い渦を見つめた。そこに吸い込まれる時計のイメージが、頭に浮かんでくる。外から見れば止まったまま、しかし本人にとっては刻み続ける――二重の真実。
「それって……過去の情報が全部、表面に貼り付いているみたいなことですか?」
声は思わず低くなった。
エリザの瞳が鋭く光る。
「その通りです。ブラックホールの表面には、外から見れば過去に落ちたすべての情報が“凍りついた”ように映る。ホーキングはこれを“情報のパラドックス”と呼びました。落ちた情報は消えるのか、それとも保存されるのか――宇宙物理の最大の謎のひとつです」
葵はノートに震える手で書き込んだ。
「ブラックホール=宇宙の記憶装置?」
彼女の問いに、セレステは少し微笑み、首を振った。
「そう考える人もいます。けれど、それを直接確かめる方法はありません。ただ一つ言えるのは、ブラックホールの周辺では“時間の流れ”という私たちの直感が完全に裏切られるということです」
久我隼人が壁の映像を見上げながら言った。
「外から眺める者にとっては凍りつき、内側に落ちた者にとっては普通に流れ続ける。まるで同じ小説を、二人の作家が別々の結末で書いているようなものです」
葵は唇にペン先を当て、ふっと笑った。
「なら、私はどちらの結末も読みたいわ」
その場にいた誰もが、その無邪気で残酷な願いに答えられず、ただ静かに闇の渦を見つめていた。