第79章 朝のルミノシティ
05:00。実験ホールの空気はひんやりとして、夜勤明けの疲れと早朝の静けさが入り混じっていた。天井の蛍光灯が白く瞬き、スクリーンには膨大なデータの流れが途切れることなく走っている。数字が行列のように並び、次々と色が切り替わる。その光の洪水の中で、研究者たちは自分の役割を果たしていた。
山崎真一が椅子から立ち上がり、両手を軽く叩いた。
「はい、シフト交代の時間です。夜勤チーム、ご苦労さま。早朝チームに引き継ぎます」
夜勤を務めた若い研究者たちは、目をこすりながら立ち上がり、記録用の端末を次の担当者へ渡した。長時間の緊張が解けると、どこか安堵の笑みが浮かんでいる。その入れ替わりを見届けながら、葵は取材ノートを開き、ページの端に大きく「05:00」と書いた。
リュック・モローは、引き継ぎの最中にスクリーンを見上げた。
「今が衝突強度のピークだ。ルミノシティが最大に達している」
その声は穏やかだったが、どこか敬虔さが混じっていた。
葵は聞き返す。
「ルミノシティ、というのは……?」
「一秒間に何回、粒子同士がぶつかる可能性があるかを示す量だよ」
リュックは白衣のポケットからペンを取り出し、紙ナプキンに数式を書きつけた。
「L = f × n₁ × n₂ / A。ここでfはビームの回転数、nは粒子数、Aはビームの断面積だ。これが大きいほど、衝突のチャンスが増える。つまり、物理学者にとって“黄金の時間帯”なんだ」
スクリーンには鮮やかな円筒状の図が映し出され、中心から飛び散る線が花火のように広がっていた。電子、ミューオン、ハドロン──それぞれの痕跡が色分けされ、空間を飛び交っている。
山崎が時計を確認しながら、端末にメモを残す。
「05:00、ピーク確認。ルミノシティ値、予定通り。解析班へ通知」
その背後でリュックはふと呟いた。
「宇宙が1秒を解読するために、人間は1日を刻んでいる」
葵はペンを止め、その言葉を書き留めた。
「科学者の時間感覚……」
リュックは続ける。
「宇宙は百億年単位で進む。でも私たちは、一秒、一マイクロ秒、いや、10⁻¹²秒の世界を追っている。人間の寿命の短さは弱点でもあるけれど、だからこそ“代を継いで”記録を積み重ねるんだ。実験は数時間、解析は数か月、理論の検証は数十年。けれどそのすべてが、宇宙のほんの1秒を解き明かすために使われる」
葵はスクリーンに映るカラフルな線の群れを見つめた。
「……宇宙の一瞬を切り取るために、人間は日常を細かく分けていく。眠気や交代、記録や確認。全部が積み木みたいに重なって、ようやく一つの秒を照らし出す」
「その通りだ」リュックは頷いた。
「ここにいる誰もが、自分の時間を削って、宇宙の時間を読むために働いている。だから05:00のこの瞬間は、まるで祈りの時刻のようなものなんだ」
山崎が再び声を上げた。
「交代完了! 解析班は第2系統を監視、検出器班はキャリブレーションを続行!」
人の声と機械音が交錯し、早朝の実験ホールに活気が満ちる。葵はノートの余白に大きく書いた。
「人間の時間=宇宙の窓」
蛍光灯の下、彼女は背筋を伸ばした。科学者たちの朝は、普通の人々の始業よりずっと早く、そして重い意味を持って始まっていた。




