第77章 時間はどれだけ遅らせられるか
「ねえ、時間って、どれくらい遅らせることができるんですか?」
西園寺葵は、ソファに腰掛けながら、わざと甘えるような声で問いかけた。
研究者たちは思わず顔を見合わせる。彼女の質問は、単純で大胆、そして核心を突いていた。
相対論の公式から
エリザ・クラインが静かに口を開いた。
「特殊相対論の式を思い出しましょう。運動する時計の時間は、静止している観測者から見て
t′=t × √(1 − v²/c²)
で遅れます。vが光速に近づけば近づくほど、この平方根は小さくなり、時間は限りなく遅くなる」
葵はノートに大きく「√(1 − v²/c²)」と書き、ペンでぐるぐる囲んだ。
「じゃあ、光速に近づけば、時間をほとんど止められるってことですか?」
「そう。ただし“止められる”のではなく、“外から見れば止まって見える”のです。本人にとっては普通に進んでいる」
実験的な証拠:ミューオンの寿命
久我隼人が補足した。
「実験的な証拠もあります。宇宙から飛び込んでくるミューオン粒子は、地上に到達する前に崩壊するはずなのに、実際には大量に観測されます。
これは、光速に近い速度で飛んでいるため、寿命が数倍に延びているからです」
葵は目を輝かせた。
「つまり、ミューオンは“相対論的に長生き”してるわけですね!」
「ええ。加速器の中でも同じ現象が見られます。粒子は外から見れば長生きする。これが時間遅れの典型的な証拠です」
重力による遅れ
セレステ・アンダーソンが手を挙げた。
「速度だけでなく、重力でも時間は変わります。一般相対論によれば、強い重力場では時計の進みが遅くなる。ブラックホールの近くなら、その効果は極端です」
彼女はスクリーンにカーブした時空の図を映した。
「たとえば地球の中心に近い原子時計は、地表のものよりほんのわずかに遅れます。高層ビルの屋上と1階でも差が出るほどです」
葵は思わず笑ってしまった。
「ということは、地下室で暮らしてる人の方が、屋上にいる人よりわずかに老けにくいってことですか?」
研究者たちは苦笑しつつもうなずいた。
宇宙飛行士の「若返り」
久我が具体例を挙げた。
「国際宇宙ステーションの飛行士は、半年滞在すると、地上の人より数ミリ秒だけ若返ります。
高速で動いているため特殊相対論で時間が遅れる一方、地球の重力から少し遠ざかっているため一般相対論で時間が進む――両方の効果が競い合う結果です」
葵はノートの余白に「宇宙飛行士=ちょっとだけ浦島太郎」と書き、にやりと笑った。
どこまで可能か?
エリザが声を引き締めた。
「結論を言えば、速度を光速に近づけるか、重力の非常に強い場に行くことで、時間はどこまでも遅くできる。ただし“完全に止める”ことはできません。
v=cでは式が破綻する。光速は越えられない壁です」
葵は頬杖をつきながら考え込んだ。
「じゃあ、もし宇宙船を光速の99.9999%まで加速できたら?」
「その場合、地球で数百年が経っても、乗員にとっては数年しか経たないでしょう。理論上は可能です。エネルギーさえ無限にあれば」
萌絵らしいまとめ
葵はノートのページいっぱいに大きく書いた。
「時間遅れは速度と重力で実現」
•光速に近い運動 → 遅れる
•強い重力場 → 遅れる
•宇宙飛行士 → 数ミリ秒の若返り
•ミューオン → 数倍の長寿命
彼女はいたずらっぽく笑いながら、最後に一文を添えた。
「つまり、若さの秘訣は“光速とブラックホール”?」
研究者たちは呆れ顔で笑い、エリザは小さくため息をついた。
「まあ、原理的には間違っていませんけどね」
葵は満足げにノートを閉じた。
――時間を遅らせる方法は確かに存在する。
次に浮かぶ問いはただ一つだった。
「……逆に、時間を逆転させることはできないの?」