第75章 加速の旋律
午前二時。
制御室の照明が一段暗く落ち、スクリーンの中心に青い波形が浮かび上がった。なめらかに上下する曲線が重なり、まるで楽譜のように並んでいる。
「RF空洞、位相同期」
山崎直哉の声が響く。
陽子ビームはすでにリングを巡っている。だが、まだ“完成形”ではない。ここからは、リングに配置された数百の高周波加速空洞が一斉に稼働し、ビームに少しずつエネルギーを与えていく工程に入る。
リュック・ベルモンがスクリーンを指し示し、葵の方へ顔を向ける。
「見えるだろう? あの波形の“谷”にビームをちょうど乗せる。ブランコをこぐとき、押すタイミングを合わせるように。押す位置がずれれば、力は伝わらない」
「つまり、音楽のリズムに合わせて演奏するみたいな?」葵が首をかしげる。
「その通り」リュックは笑った。
「ビームを演奏する。加速器は巨大な楽器なんだ」
セレステ・アンダーソンがその比喩に続ける。
「調和が崩れれば、音は濁る。ビームも同じ。波形と位相が合わなければ、粒子は散らばってしまう。でも、正確に合わせれば、何十億の粒子が一斉に“音”を奏でる」
葵は胸の奥がふるえるのを感じた。
「加速は音楽」――手帳に大きく書き込む。
そのとき、鶴見が冷却モニタに目を走らせる。
「磁場調整、完了。ビーム束半径、収束」
彼は報告を終えると、端末に映る数値を見ながら小さく付け加えた。
「数十マイクロメートルまで絞った。髪の毛の千分の一以下だ」
「そんなに?」葵が驚く。
エリザ・クラインが補足する。
「それほどに細く絞られた矢同士を、数百メガヘルツのリズムで繰り返し交差させる。衝突の確率を少しでも高めるために」
スクリーンに数値が流れる。1.0、2.5、4.0……。数字はゆっくりと上がり、やがて「6.5」の表示で止まった。
「ビームエネルギー、6.5テラ電子ボルト到達」
山崎の声が制御室に響く。
一瞬の沈黙ののち、レベッカ・ハワードが端末から顔を上げる。
「安定化完了。イベントレート計測準備に入ります」
葵はスクリーンに釘付けになった。無数の粒子が見えない速度で走っているはずなのに、彼女の目には、リング全体が光の旋律を奏でているように思えた。
「加速の旋律……」
その言葉が思わず口をついて出る。
セレステが静かに頷いた。
「ええ。宇宙の始まりの鼓動を、人間が地下で再現しているのよ」
午前二時三十分。
「安定ビーム」の文字が再びスクリーンに表示される。これで、衝突実験の幕が開く。
葵は手帳を閉じ、胸に抱きしめた。
「人類は、宇宙の楽譜を読み取ろうとしている……」
制御室の静けさの中に、確かな高揚が漂っていた。