第74章 同じ「秒」ではない
「でもね、やっぱり納得いかないんです」
葵はペンをくるくる回しながら、わざと子供っぽく唇を尖らせた。
光時計の話は理解した。運動する時計は遅れる。GPSの補正も、その結果だ。
――でも。
「だって、“時間が遅れる”って言っても、本人にとっては普通に一秒ずつ刻んでるんですよね? それなら“本当の一秒”ってどこにあるんですか?」
挑発するような視線を送ると、久我隼人は苦笑し、エリザ・クラインはわずかに眉を動かした。
セレステが肩をすくめ、ホワイトボードに近づく。
「いいですね。いよいよ固有時の出番です」
固有時と座標時間
セレステはチョークで二本の線を描いた。一つはまっすぐ進む線、もう一つは曲がりくねった線。
「固有時とは、自分自身が体験する時間。つまり、自分の胸ポケットの時計が刻む秒針です。
一方、座標時間とは、外部の誰かが作った“地図上の時間”。たとえば、地球の中心から見た宇宙船の経路に付けられる目盛り。
この二つは、必ずしも同じではないんです」
葵は勢いよく手を挙げた。
「じゃあ、宇宙船のパイロットは“自分の時計が正しい”って言い張れるんですか?」
「もちろん」
エリザが淡々と答える。
「物理は観測者に優劣をつけません。それぞれの固有時は正しい。ただし、別の観測者と比べるとズレが生じる。これが相対論です」
世界線という考え方
葵は机に身を乗り出した。
「じゃあ、“誰が本当の時間を刻んでるか”なんて、永遠に決まらないってことですか?」
「決まらないのではなく、意味を持たないのです」
今度はリュック・ベルモンが口を挟んだ。宇宙論の専門家らしい落ち着いた声だった。
「相対性理論では、物体の運動は“世界線”という一本の線で表されます。その線に沿って流れるのが固有時。座標時間は、外から見た地図のようなもの。地図の縮尺が違えば、時間の目盛りも違って見える」
彼は紙に一本の曲線を描き、その上に小さな時計の絵を載せた。
「宇宙飛行士にとっては、曲線に沿って進む自分の時計が唯一の時間。地上の観測者にとっては、別の座標で測られる時間。それだけのことです」
萌絵らしい直感
葵はノートに線を引き、首をかしげてみせた。
「うーん、でも、それってちょっとずるくないですか? “どっちも正しい”なんて言い方、議論を煙に巻いてるみたいで」
彼女はふっと笑い、ペンを唇に当てる。
「じゃあ、こう考えたらどうです? ――“私が体験する時間こそが真実”」
少しお嬢様めいた断定に、研究者たちは思わず顔を見合わせた。
エリザが小さくため息をついたが、否定はしなかった。
「実際、それが固有時の考え方に近いのです。あなたの体験は、あなたの世界線上で唯一のもの。他人と比較するまでは矛盾は生じません」
実験的な裏付け
久我がスクリーンを操作し、グラフを表示した。
「この考えは単なる哲学ではなく、実験で確かめられています。高速で飛ぶ飛行機に原子時計を載せ、地上の時計と比較すると――ほんのわずかですが時間がずれる。
国際宇宙ステーションの飛行士も同じ。半年滞在すると、地上の人間よりミリ秒単位で若返るんです」
葵は目を丸くした。
「じゃあ、宇宙飛行士はタイムトラベラーみたいなものですね!」
「まあ、ほんの少しだけね」
セレステが笑った。
「ただ、スケールが小さすぎて日常では気づかない。だから古典的な時間の感覚が支配している。でも、原理的にはいつでも“固有時の違い”がある」
葵のまとめ
葵はノートのページを大きく使って、二つの見出しを書いた。
•固有時:観測者自身の時計が刻む時間。
•座標時間:外部の座標系で測られる時間。
その下に赤字で線を引いた。
「どちらも正しい。ただし比べるとズレる」
彼女はにやりと笑った。
「なるほど。“私の時間が一番”って、科学的にも許されるんですね」
研究者たちは苦笑混じりに頷いた。
久我が呟く。
「ただし、その時間はあくまで“あなたの世界線に限って”ですがね」
葵は肩をすくめた。
「それで十分ですわ。だって、私の人生は私しか歩けないんですもの」
その言葉に、場が少し和み、次の議論への準備が整った。