第73章 相対論への入口
翌朝。
地下研究棟の会議室は、まだ人影も少なく静まり返っていた。
西園寺葵は、昨夜まとめたノートを机に広げながら、前回の議論を反芻していた。
――量子の世界が確率でも、巨視的には平均化されて古典力学が成り立つ。
その整理はできた。だが、今度はもっと根本的な問いが彼女を捉えていた。
「時間は、本当に同じ速さで流れているのか?」
時計の針は誰にとっても同じように動く。そう信じてきた。
しかし、相対性理論によればそれは違う。人によって時間の流れが異なる。
この不可思議をどう理解すればいいのか。
会議室に入ってきたのは、宇宙物理学者のセレステ・アンダーソンだった。
「今日は“光時計”をやってみましょう」
彼女はにこりと笑い、ホワイトボードに長方形を描いた。中に二枚の鏡を上下に置き、その間を光が反射するように矢印を引く。
「ここに光時計があります。鏡の間を光が往復し、それを1回で“1チック”と数える。これが時計の役割を果たすわけです」
葵は首をかしげた。
「でも、光の速さは変わらないんですよね?」
「そう。真空中での光速は誰にとっても同じ。これが特殊相対論の出発点です」
セレステはさらに図を描き足した。
今度は光時計全体が横に動いている絵。光は上下だけでなく、斜めに進んで反射する様子が描かれる。
「もし時計が動き出したら、光は斜めの経路をとることになります。往復にかかる時間はどうなるでしょう?」
葵は息を呑んだ。
「……経路が長くなるから、時間も長くなる?」
「その通り」
セレステは頷き、数式を軽く書いた。
「直角三角形を考えましょう。光速をc、時計の速さをvとします。時間tで進む距離は光ならct。横方向に動く距離はvt。だから経路は斜辺√((ct)² − (vt)²)。結果として、動く時計の“1チック”は静止時計より長くなる。つまり、運動する時計は遅れて見えるのです」
葵はしばらく沈黙した。
単純な図形が“時間の伸び縮み”を導き出す――それが驚きだった。
「じゃあ……ロケットに乗った宇宙飛行士の時間は、地上の人よりゆっくり進むんですか?」
「そう」
セレステは微笑んだ。
「これは実際に実験で確かめられています。飛行機や人工衛星に原子時計を積んで比較したら、地上の時計との差が観測されました。GPS衛星のシステムも、この補正なしでは数キロ単位で誤差が出てしまう」
葵はノートに太い字で書き込んだ。
「光時計の思考実験 → 運動する時計は遅れる」
「でも……」と彼女は顔を上げた。
「それって、誰の時間が“本当”なんでしょう? ロケットの乗員にとっては、自分の時計が普通に進んでいるように感じるはずです」
セレステは小さく笑った。
「そこがポイントです。それぞれの観測者は、自分の時計を基準にすれば“普通”に流れている。ただ、他の観測者と比べると食い違いが生じる。それが特殊相対論でいう“相対的な時間”なのです」
そこへエリザ・クラインが部屋に入ってきた。
「議論が始まっているようですね」
彼女は図を一目見て、すぐに補足した。
「この結果を一般化すると、次の式になります」
彼女はマーカーで γ=1/√(1−v²/c²) と書き込んだ。
「これがローレンツ因子。運動する物体の時間は、このγ倍だけ伸びます。速度が光速に近づくほど、時間は著しく遅れる」
葵は目を輝かせた。
「つまり、理論上は“光速に近いロケット”で旅をすれば、乗っている人にとっては数年しか経たないのに、地球では何十年も経っている……そんなことがあり得るんですね」
「そうです」
エリザの声は冷静だった。
「実際、それが“浦島効果”として知られています。これも空想ではなく、加速器で粒子を観測すれば、寿命が数倍、数十倍に延びているのを確認できます。ミューオンなどが良い例です」
葵はページの最後にまとめを書いた。
1.光時計の思考実験 → 経路が長くなり、時間が伸びる。
2.光速は誰にとっても一定。だから時間が調整される。
3.それぞれの観測者にとっては自分の時間が“普通”。
「時間は絶対ではない。観測者によって伸び縮みする」
ノートを閉じた葵は、机に置かれた研究者の原子時計模型を見つめた。
針は正確に進んでいる。
だが、その進み方は観測する場所と速度で違う――。
世界は思ったよりずっと柔らかく、相対的にできているのかもしれない。




