第72章 リングに光が走る
午前一時三十分。
全長27キロメートルのリングの中へ送り込まれた陽子ビームは、すでに超伝導磁石に導かれ、光速の99%以上の速度で走っていた。制御室のスクリーンには、リングを模した円環が浮かび、赤いドットが環の周をぐるぐると巡っている。実際には無数のバンチ――数千億個の粒子が固まりとなって飛んでいるが、表示はあえて単純化されている。
「ビーム捕捉、安定」
山崎直哉が冷静に読み上げる。声に大きな抑揚はない。だが、その一言で部屋に漂っていた緊張が一気に緩んだ。
西園寺葵は手帳を握りしめながら、赤いドットを凝視した。
「まるで……光そのものがリングの中を走っているようですね」
リュック・ベルモンが頷き、補足する。
「実際、光速にきわめて近い。速度そのものはほぼ変わらないが、ここからは“質”を高める工程に入る。ビームをより細く、より密に絞るんだ」
「質を高める……?」葵は首をかしげる。
「カメラのピント合わせに似ている」リュックは指で輪を描いた。
「ビームが拡がったまま衝突させても、確率は低い。四重極磁石でビームを数十マイクロメートルまで集束し、衝突点で二本の矢が正確に交わるようにする。それが“安定化”の意味だ」
コンソールの端で、鶴見が計器を見つめていた。
「冷却ライン正常。磁場電流、設定値に到達」
短い報告。彼の目は超伝導磁石の挙動を一瞬たりとも離さない。
葵はそっと尋ねた。
「もし、超伝導が途切れたら?」
「その瞬間、磁石はただの鉄塊に戻る。ビームは制御を失い、壁を破壊してしまう」
鶴見は淡々と答えた。
「だから、常に1.9Kを保たなければならない。磁場の精度は10⁻⁷のレベルで揃えられている」
葵は背筋が粟立つのを感じた。「冷たさで縛る光速の奔流」――手帳にそう書きつけた。
そのとき、別のスクリーンに波形が現れた。なめらかな山が周期的に連なる。
「これは?」葵が指差す。
セレステ・アンダーソンが答える。
「RF空洞の位相だわ。ビームはこの電場に“押される”ことで、エネルギーを少しずつ上げていく。ちょうどブランコをこぐときに、タイミングよく背中を押すようなものよ」
「背中を押す……」葵は納得したように微笑んだ。
「だから、ただ回っているだけじゃなく、押されるたびに一段ずつ高く飛ぶんですね」
「ええ。そして最終的には一粒あたり6.5テラ電子ボルト。地上では不可能と思われたエネルギーに到達する」
エリザ・クラインが静かに言葉を添える。
「私たちがこうしてビームを安定させるのは、宇宙が残した“秘密の層”をめくるため。ブラックホールの近傍でしか得られないような条件を、この地下で再現するの」
葵はその言葉にふと鳥肌を覚えた。目の前の装置は単なる機械ではなく、宇宙の断片を地上に呼び戻す装置なのだ。
午前二時。
スクリーンに「安定ビーム」の文字が点灯した。ビームはリングの中で完全に捕捉され、交差点に導かれる準備が整ったのだ。
山崎が息を吐き、端末に指示を入力する。
「次は衝突点のアライメントだ。ATLAS、CMS、調整開始」
研究者たちの視線が一斉にスクリーンへ注がれる。リングを駆ける光の帯は、今まさに二本の矢として交わろうとしていた。
葵はペンを置き、目を凝らした。
「リングに光が走る……。これは地球の夜の地下で起きる、もうひとつの夜明けだ」