第70章 なぜ古典力学はよく当たるのか
カメラマンが機材を調整する間、西園寺葵は会議室の椅子に腰を下ろし、しばし窓越しの地下施設を眺めていた。
さきほど聞いた「デコヒーレンス」という言葉が耳に残っている。量子の曖昧さを、環境が統計へと変換する――なるほど、筋は通っている。だが彼女にはまだ一つの違和感があった。
「エリザさん、久我さん」
葵はノートをめくり、遠慮なく問いを投げた。
「量子の世界は確率的なのに、なぜ日常の世界では“ニュートンの法則”がよく当たるんですか? 机を押せば動く、ボールを投げれば放物線を描く……。それって、完全に決定論ですよね?」
久我は軽くうなずき、エリザに視線を送った。
エリザは腕を組み、まっすぐ葵を見つめる。
「いい質問です。理由は三つあります。
一つ目は大数の法則。
二つ目は不確定性の相対的な小ささ。
三つ目は巨視的自由度の平均化。
これらが重なって、日常世界は“ほぼ決定論的”に見えるのです」
1. 大数の法則
エリザはホワイトボードに「サイコロ」を描いた。
「たとえば電子一個のふるまいは確率的で、次にどこへ飛ぶかは完全には予測できない。でも、数十億個の電子が同時に動けばどうなるか?」
彼女は次に、無数の点を描き、真ん中に大きな円を描いた。
「大量の試行を繰り返すと、結果は平均値に近づく。これが大数の法則です。
電流も、空気の分子運動も、同じ。個々はランダムでも、全体では法則的になる。だから電気回路や熱力学が成立する」
葵はノートに「大数→平均が法則化」とメモした。
2. 不確定性の相対的な小ささ
今度は久我が口を開いた。
「次は不確定性原理。位置と運動量を同時に正確に知ることはできない、というやつです。
でも、この不確定さは“粒子が小さいからこそ目立つ”。たとえば、野球のボール。質量はおよそ0.15キロ。電子の数で言えば10の25乗個の粒子でできています。
そのボールの位置の不確定さを計算すると……天文学的に小さい。ミクロでは効いても、マクロでは完全に無視できる」
葵は目を丸くした。
「つまり、不確定性は消えるんじゃなくて、“無視できるほど小さい”ってことですね」
「そうです」
久我は頷く。
「だからこそ、ボールの軌道はニュートンの運動方程式でほぼ正確に計算できる」
3. 巨視的自由度の平均化
エリザが再びマーカーを取った。
「三つ目は巨視的自由度の平均化です。
机ひとつを考えましょう。無数の分子が絶えず振動している。でも、その総和はほぼ一定に平均化される。だから机は“静止した固体”として観測される」
彼女は図を描き、分子がバラバラに動く様子を示し、次に太い矢印を描いた。
「小さな揺らぎは統計的に打ち消し合い、大きな安定が姿を現す。それが古典力学の舞台なのです」
葵は深く息をつき、ノートに三つの理由を書き出した。
1.大数の法則
2.不確定性の相対的小ささ
3.巨視的自由度の平均化
「なるほど……。つまり“古典力学は正しい”のではなく、“古典力学で十分なほど誤差が小さい”ということなんですね」
エリザは満足げに微笑んだ。
「まさにその通り。古典力学は近似理論です。でもその近似は驚くほど良く働く。だから日常生活では、量子力学を意識する必要はないのです」
そのとき、レベッカが口を挟んだ。
「面白いでしょ? 私がAIでデータを扱うときも同じ。個々のデータはバラバラで不確定。でも何十億件も集めると、きれいな分布が浮かび上がる。つまり、大規模データが古典的な法則を生むのよ」
葵は笑みを浮かべた。
「科学って結局、“平均の上に成り立っている世界”を見ているんですね」
「そう」
久我が締めくくった。
「そして、平均が破れるほど極端な条件――光速に近い速度や、原子一個のスケールでは――古典力学は崩れ、量子や相対論が顔を出す。だから科学者はその境界を探し続けているのです」
葵はページの最後に大きな文字で書いた。
「古典力学=近似。だが平均が効く世界では驚くほど正確」
彼女はふと、窓の外の巨大リングを見やった。
今この瞬間も、そこでは何十億もの粒子が同時に加速され、衝突を繰り返している。
――ミクロの曖昧さが、巨視の確実さを支えている。
その思いを胸に、葵は次の問いを準備した。
「では、時間そのものはどう変わるのか?」
物語は次のステップへ進もうとしていた。